最近観た2本の映画について、私的メモを兼ねて。
① 『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』公式ホームページ (gewalt-no-mori.com)
この映画は、1972年に“内ゲバ事件”で早稲田大学のキャンパス内で殺された川口大三郎氏をめぐるドキュメンタリー。※ゲバ=ゲバルト=暴力(ドイツ語)
1972年といえば、私は高校3年生。
申し訳ないけど、事件の記憶はありません。
だからと言って、大学紛争に関心が無かったわけではなく、誰も無関心ではいられない時代でした。でも、1969年の東大安田講堂封鎖解除で収拾した、という認識でした。
なので、1972年にまだ内ゲバが続いていたこと、事件の凄惨さ、理不尽さに愕然としました。
中学・高校時代(1967~1972年)の私にとって「学生運動は正義の闘い」に見えていました。
若者パワーが音楽もファッションも何もかも変えていくなか、「あのお兄さんたちが世界を変えてくれる、頼もしい!」と。
一方で、最高学府の学生がなぜ暴力に訴えるのか? それが理解できませんでした。
本作を観た理由も、「革命的暴力とは何だったのか?」「その肯定の結果は?」を知りたかったから。
武装闘争を掲げ、ラテンアメリカ全土に革命を広げようとしたチェ・ゲバラに対する疑問も同じです。(当時は意識していませんでしたが)
キューバ革命を否定するのではありません。
ただ、武装闘争をラテンアメリカ全体に広げようとした結果がどうだったか?
内ゲバ事件を再考するように、キューバを含め、再考する必要と意義があると思うのです。
正論、正義の闘いに対し、反論するのは難しいものです。
高校時代、教育実習の国語の“先生”が授業中に言った言葉は、私にとって決定的でした。
「あなたたち、何もしなくてもいいから、邪魔だけはしないでね」
それを聞いて、「そうだ、私が出来るのは邪魔をしないことなんだ!」「何も出来ないけど、邪魔だけはしない」と心に誓いました。
たとえ”正義の暴力”や”革命的暴力”にどんなに違和感を覚えても。
映画のなかで、革命家の女子大生が放つ「私たちは階級闘争を闘っているんだ。革命に命をかけているんだ。お前たちはそれに刃向かうのか。帰れ」に重なる記憶です。
こうして疑問を封印してきた私が、キューバ映画『低開発の記憶』と出会ったとき、主人公セルヒオを通じてキューバを知りたいと思いました。
今も「どうしてそんなにキューバに関心があるの?」とキューバ人からも訊かれますが、原点は「革命的暴力」への疑問・違和感と「その行方」です。
この機会にエドムンド・デスノエスの言葉を伝えておきます。
「キューバの軍国主義、ゲリラ闘争の拡張は、キューバにおける社会正義の夢を大きく損なった。チェは、キューバに社会主義を建設すべきだったのであり、失敗に終わる軍事的冒険に身を投じるべきではなかった。比較的豊かな島を発展させる代わりに、司令官たちは世界に武力を広げることに信をおき、キューバの幸福を犠牲にした。2万人以上のキューバ人がアンゴラで命を落とした。我々の島は国際的連帯の下に軽んじられたのだ」
ちなみに、私がブログを書きながら見つけた〈答え〉は、アフガニスタンで殉職された中村哲氏です。
『荒野に希望の灯をともす』:聴診器と鶴橋(ツルハシ) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
クラウドファンディングで英語版も製作されました。
世界中で観て欲しい!
②
学生運動が社会に吹き荒れていた嵐だとすると、トノバンこと加藤和彦は、私にとって〈内なる世界〉〈私的世界〉の象徴:反戦、不条理への抵抗、ユーモア、軽やかさ。
ファンクラブにも入っていましたが、その当時は「ジョン」と呼んでいた気がします。
今回、久しぶりに映画で彼の歌声を聞いたら、記憶より素敵だったし、目の付け所は間違ってなかったと思いました(笑)。
松山猛さんのエッセイ@「アンアン」?も愛読していました。
ミカさんには嫉妬していたかも(笑)
拙ブログ関連記事:
https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12290738687.html