デスノエス氏との出会い | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

いよいよ「芸術の秋」到来。
選挙結果の報道にまぎれて、新聞にはヴェネチア映画祭クロージングの報も小さく掲載されていましたが、これからの季節、日本でも楽しみな映画祭が控えています。
ヒスパニック・ビート・フィルムフェスティバル東京映画祭も楽しみですが、私にとって最大のイベントは、毎年12月初めに開催されるハバナ映画祭(正式名称は新ラテンアメリカ国際映画祭」)。
いつか行ってみたいと夢に見つつ、本当に行ってしまったのは、つい昨年のこと。
しかも、その前年に出会ったマリオ先生の「キューバ映画・特別個人授業」というオプションも加わり、そちらをメインに映画祭を初体験してきました。
で、予想以上の収穫を得てしまったため、今年も絶対に行く!と決めています。
(今年は12月6~16日開催の予定)


昨年の思いがけない、というか“奇跡的”といえる映画祭の収穫が、私がいまだにハマッている映画『いやし難い記憶』の原作者であり、映画の共同脚本家であるエドムンド・デスノエス氏との出会いです
ここで、簡単にエドムンド・デスノエスについて紹介しておきましょう。


1930年、ハバナ生まれ。
父はキューバ人だが、母がジャマイカ出身なので、幼い時から(母の通訳をして)英語が堪能。
キューバで高校を終えた後、ニューヨークにあるコロンビア大学でジャーナリズムを専攻。

卒業後、一時期ベネズエラで過ごすが、再び米国に戻り、雑誌「ビシオン」の編集に携わる。

レサマ・リマが主催する文学グループ“オリヘネス”に参加。
1959年にキューバで革命が成就すると、妻と共に“革命に参加すべく”帰国。
キューバに戻ってからは、教育省に勤務しながら、「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」などの編集に携わったり、カサ・デ・ラス・アメリカの委員を務める一方で執筆活動を行う。
1979年、仕事でベニスを訪れた後、キューバには戻らずに米国へ渡る。
以後、今日までニューヨーク在住。


以上が、デスノエス氏の略歴です。
実は、2003年当時(私が二度目のキューバ旅行をした年)、デスノエス氏について「アメリカ在住」という以外、情報は全くつかめませんでした。
それが2004年になって、いきなり、氏が2003年の2月頃、カサ・デ・ラス・アメリカスから招待されて(文学賞の審査員として)20数年ぶりに祖国の土を踏んだことをネットで知りました。


デスノエス1


映画『いやし難い記憶』にはデスノエス氏が登場するシーンがあるので(上の写真)、38歳頃(主人公と同じ)の顔は見ていましたが、それから40年近くを経た現在の写真を見た時は、同じ人には思えませんでした。

けれども、とにかくネットで70代の姿を見ていたおかげで、ハバナの通りで見かけたとき、直ぐに判ったのです「あ!デスノエスだ!」と。
(でも、ニューヨークに居るはずなのにナゼ?信じられない!)


通りの向こう側だしどうしよう・・・」と一瞬あきらめかけたのですが「デスノエス健在」を知って以来ずっと「訊きたいことがある・・・」と思っていたので、やはり引き返して通りを渡り、思いきって声をかけました。
「エドムンド・デスノエスさんですか?」
「そうだ」
「私『いやし難い記憶』について研究しています。セルヒオ(主人公)が他人事だと思えないので。日本は戦後がらっと社会が変わったから、急激な変化にとまどうセルヒオの気持ちが理解できると思うんです」
と勝手に口をついて出た私の言葉に、返ってきた返事は思いがけないものでした。

「ああ、日本の封建的社会が崩れたりね。私も読んだよ。太宰の『斜陽』とか、アクタガワ、ミシマ・・・」とよどみなく日本のことが語られていくではありませんか!
「まずい!ついていけない・・・」と及び腰になってしまった私に、「ホテル・ナシオナルに滞在しているからいつでも話を聞きにおいで」と言って下さいました。

          デスノエス2

(後日、マリオ先生と一緒にホテル・ナシオナルでお話をうかがったとき。左がデスノエス。ハバナで吸う葉巻の味は格別!とおいしそうに味わってました)


こうして夢にも思わなかったデスノエス氏と今もメールやり取りができる、という幸運にあずかっています。この幸運から得られる収穫をブログにもぜひ反映したいと思っていますので、皆さまの方からも何かありましたら、コメント等でご質問やご提案をお寄せ下さい。(いつも返事があるとは限りませんが)


さてデスノエスからは、年末かお正月ごろ「大岡昇平の『野火』を読むように」というアドバイスをいただきました。また「私の小説からは日本の作家の声が聞きとれると思う」とも。三島由紀夫については“天才”と評しておられます。


ちょっと長くなったので、今回はここで中断。
それにしても、デスノエスが文学を通じてそれほど日本を身近に意識しているとは思いませんでした。
私もブログ開設時「日本人の意識にキューバ映画を移植するという君の計画はどうなっている?」とメールで言われました。
う~ん、どうなっているんでしょうね?私にはワカラナイ・・・