アレア監督年表とフィルモグラフィー | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

アレア監督年表とフィルモグラフィー
Titon 1928年12月11日 
ハバナで生まれる。

*ちなみにチェは同年6月14日生まれ
43~48 音楽を学ぶ
46 (両親の要望で)ハバナ大学法学部に入学

(カストロは一年先輩に当たる)
47  8ミリで短編映画を撮る:

   「La capercita roja」 「el fakir」

 

48 人民社会党(PSP=後のキューバ共産党)の要請を受けて、

  ドキュメンタリー「Movimiento por la paz」(16ミリ)の撮影を請け負うが未完。
*この年カストロ(1926年生まれ)とアルフレド・ゲバラ(1925年生まれ、

   PSP党員)はコロンビアで「ボゴタソ」に遭遇。

49 PSPの後援でドキュメンタリー「Primero de Mayo」の撮影にカメラマンとして参加するも未完。
50 大学の機関紙”Saeta”に参加。
  第三回青少年・学生ワールドフェスティバル(翌年にベルリンで開催)の幹部を務める。

51 文化団体「Nuestro Tiempo」設立に参加。
  同団体には反独裁を唱える左派知識人が集まり、文化運動を展開した。

  8ミリ映画製作 「Una confusión cotidiana」

  共同監督・撮影:ネストール・アルメンドロス/約10分)
  内容は、フランツ・カフカの同名の作品をベースにしたユーモラスな短編


51 法学の博士号を取得後、ローマに行き

   Centro Sperimentale di Cinematografía で映画監督を目指す。
   同窓生には、フリオ・ガルシア・エスピノサ(キューバ)、

  フェルナンド・ビリ(アルゼンチン)、ガルシア・マルケス(コロンビア)、

  オスカル・トーレス(ドミニカ)らがいた

52 3月バティスタ、軍事クーデターで政権奪取  


53  卒業作品 「Il sogno di Givovanni Bassain」(35ミリ)で

プロット、脚本協力、助監督を担当(留学生は監督ができなかった為)。

   
東欧諸国を旅行した後、キューバに帰国
機関誌 “Nuestro Tiempo”編集委員会、及び同協会の映画部に参加。
   映画部には、G. エスピノーサ、サンティアゴ・アルバレス、

アルフレッド・ゲバラも所属
   同年7月26日、カストロ、モンカダ兵営襲撃

54 イタリアより帰国後、しばらく無職状態
   Nuestro Tiempo主催にて「キューバ映画の現状」会議を主導
   同文化団体の映画部に参加

55  中編ドキュメンタリー「エル・メガノ」(16ミリ)を

   J.G.エスピノサ、アルフレド・ゲバラ、ホセ・マシップ等と製作。
   ラ・シエナガ・デ・サパタの炭焼き人たちの生活がテーマ。
   同フィルムは警察に押収される。
56~59  “Cine Revista”向けの短編を数本、監督する
*シネ・レビスタ:メキシコの有名なプロデューサー、

     マヌエル・バルバチャーノ・ポンセのもとで製作された週刊映画。

  内容は35ミリのドキュメンタリー小品や

     ユーモアあるルポルタージュ及び広告。
  ポンセはキューバで映画宣伝会社を設立し、

     ドキュメンタリーの製作などを行った。

58  「イギリスによるハバナ占領」(Cine Revista向けドキュメンタリー)
   雑誌 “Actualidad Curiolla” “Carteles”にイラストを発表。


59  キューバ革命成就

   オスマニー・シエンフェゴス指揮下の革命軍文化部・映画課シネ・レベルデをエスピノサと共に組織する    (3月、ICAICに吸収される)
  「Esta tierra nuestra(われらの土地)」のロケ開始@マヤリ
  革命後初のドキュメンタリー作品で、農地改革前の農民の生活状況を描く。

 

   ICAIC(Alfredo Guevaraが総裁)に参加。‘61年まで幹部会メンバー。
   週刊誌にコミック漫画 “Pitirre”を連載。

 

60  初の長編映画(フィクション) 

    「Historia de la Revolución (レボルシオン革命の物語)」 を製作。
    9月2日 ドキュメンタリー 「Asamblea General(全国会議)」:

 ハバナ第一宣言時の人民集会

    *6台のカメラで撮影:ラモン・スアレス、ネストール・アルメンドロス、

    ホルヘ・アイドゥ、ルイス・マルソア、アルトゥロ・アグラモンテ、

    グスタボ・マイヌレ


   第1回作家・芸術家会議の代表を務める。
   作家・芸術家協会、及びその機関誌

     “La Gaceta de Cuba”メンバーに選出される。
61  ピッグス湾侵攻事件に報道特派員として参加。
   サンティアゴ・アルバレスが主宰する

   ICAICラテンアメリカニュースのルポルタージュとして
   「Muerte al invasor(侵略者に死を)」 15分
62  「Las doce sillas(12の椅子)」
   10月 キューバ危機
64  「Cumbite(クンビテ)」
66  「La muerte de un burócrata(ある官僚の死)」
68  「Memorias del subdesarrollo(低開発の記憶)」
70  砂糖1000万トン収穫計画の失敗
71 「Una pelea cubana contra los demonios (悪魔と戦うキューバ人)」
74  短編ドキュメンタリー 「El arte del tabaco」
76  「La última cena(最後の晩餐)」
77   「De cierta manera(ある方法で:サラ・ゴメスの遺作)」
79  「Los sobrevivientes(天国の晩餐)」
80  “Dialéctica del espectador(観客の弁証法的考察)”執筆
81   イタリアにて“Dialéctica del espectador”刊行。
82  “Dialéctica del espectador”のキューバ版出版(UNEAC)。
83  「Hasta cierto punto(ある程度までは)」
    “Dialéctica del espectador”メキシコにて出版。
84   第29回ベルリン国際映画祭に出席。
    “Dialéctica del espectador”がポルトガル語に翻訳されて

    サンパウロで出版される。

88  「Cartas del parque(公園からの手紙)」:脚本=G.G.マルケス
    キューバ高等芸術院(Instituto Superior de Arte)の正教授に就任
    “Dialéctica del espectador”の英語版が出版される
90  米国で「低開発の記憶」のシナリオ等が

     Rutgers University Pressより刊行される
91  メキシコにてG.G.マルケスの同名作品を題材に
   短編(フィクション)“Contigo en la distancia”を監督
   12月 ソ連消滅
93  グッゲンハイム記念財団の奨学金を取得。
タビオ監督と共同で「苺とチョコレート」 を完成させ、

   第15回ラテンアメリカ映画祭で上映される。
94  「苺とチョコレート」ベルリン映画祭出品。
95  タビオ監督と共同で「グアンタナメラ」を完成。マドリッドでの封切りに出席。
同作品はベネチア映画祭でも上映される。
アカデミー賞・最優秀外国映画作品に「苺とチョコレート」がノミネートされ

授賞式に出席。

病状はかなり深刻な状態だった。

ニューヨークのリンカーンセンターは、同監督の作品と、

その生涯にわたる知的活動を称えて上映会を開催。
1996年4月16日 永眠