訃報:ラモン・F. スアレス (撮影監督) | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

去る25日、キューバ映画の名カメラマン、ラモン・スアレスがパリで亡くなりました。

1930年生まれなので享年86歳。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

 

スアレスは革命が勝利したときキューバ国外にいました。
国を出たのは1954年ですが、52年の時点ではハバナのCMQ放送局で働いていたことが分かっており、すでにエドムンド・デスノエス、ヘルマン・プイグ、トマス・グティエレス・アレアらとは友人同士でした。

(シネ・クラブ繋がりでしょう)

 

ですから1959年にICAIC(キューバ映画芸術産業庁)が創設されると、アレア(当時ICAIC幹部)の呼びかけに応え(本格的に映画を撮れるという期待を胸に)帰国し、ICAICで働き始めます。

12の椅子』(1962年)から『クンビーテ』(1964年)、『ある官僚の死』(1966年)、『低開発の記憶』(1968年)までアレア作品の撮影監督を務めました。

 

が、この最高傑作(彼のカメラが大きく貢献している)を最後に(他の多くの映画人同様)1968年にキューバを去ります。 理由は不明ですが、アレアに「君が私を呼び戻したのだから責任をもって私を国外に出せ」と言った、とどこかで読んだ記憶があります。

 

ともかくスペインに脱出。 そこで映画カメラマンとして働き出したものの、彼が撮影監督を務めた映画“El desastre de Annual” (リカルド・フランコ監督/ 1970)がフランコ政権の逆鱗に触れ、追放の憂き目に。それでパリに移ったのでしょうか?
いずれにせよ、フランスを拠点に米国やラテンアメリカで縦横に活躍し続けました。

 

キューバを去った芸術家は未だに本国では報道されないようですが、彼らの業績がきちんと評価され、キューバ文化史に位置づけられる日が一日も早く訪れることを願います。

 

フィルモグラフィー(キューバ時代)
•1960, Congreso de juventudes (Doc.). Dir. Fernando Villaverde.
•1960, Patria o Muerte (Doc.). Dir. Julio García Espinosa.
•1960, El Negro (Camarógrafo).
•1961, Cuba pueblo armado (Doc.). Dir. Joris Ivens.
•1961, El joven rebelde (Ficc.). Dir. Julio García Espinosa.
•1961, Napoleón gratis (Camarógrafo).
•1961, Carnet de viaje (Doc.). Dir. Joris Ivens.
•1962, Las doce sillas (Ficc.). Dir. Tomás Gutiérrez Alea. (12の椅子)
•1962, Hemingway (Doc.). Dir. Fausto Canel.
•1962, Primer carnaval socialista (Doc.). Dir. Alberto Roldán.
•1963, Grabados revolucionarios (Dirección. Doc.).
•1964, Cumbite (Ficc.). Dir. Tomás Gutiérrez Alea. (クンビーテ)
•1964, Tránsito (Ficc.). Dir. Eduardo Manet.
•1964, Romeo y Julieta 64 (Dirección).
•1965, Un día en el solar (Ficc.). Dir. Eduardo Manet.
•1966, La muerte de un burócrata (Ficc.). Dir. Tomás Gutiérrez Alea. (ある官僚の死)
•1968, Memorias del subdesarrollo (Ficc.). Dir. Tomás Gutiérrez Alea. (低開発の記憶)

 

キューバ以降はこちら:http://www.imdb.com/name/nm0005894/?ref_=nv_sr_3

 

★追記(2021年10月4日)

今までずっと〈ラモン・スアレス氏ってどんな人だったのだろう?〉と知りたかったのに、容姿の分かる画像が見つかりませんでした。

が、最近キューバの映画研究家ファン・アントニオ・ガルシア・ボレロ氏がENDACにアップ。

 

1983年製作の映画『Power Game』で、同時期(1968年)に亡命したファウスト・カネル監督のもと、撮影を担当しています。写真はそのときのもので、ENDACから拝借。

 

追記(2024年6月29日)

昨夜、ファウスト・カネル氏からラモン・スアレスの出国の状況について私が訪ねたメールへの返信が届きました。(幸いにも最近カネル氏とメールでやりとりしています)。

以下は、彼の返信の訳:

 

ラモンがキューバを去ったのは、もう耐えられなかったからだ。同じく国を出た残りの私達同様に。東ドイツの貨物船で出国しようとした。船長が自ら船室を借りてくれた。妻と生後間もない娘と出国しようとしたが、警察に阻止された。それで、アルフレド・ゲバラから公的な出国許可を得られるよう、ティトン(トマス・グティエレス=アレア)に頼まねばならなかった。ラモンをキューバ映画に引き入れるため、スウェーデンから連れ戻したのはティトンだったからだ。