PM上映禁止事件(9)F.カネルの視点 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

先月は50年前の4月に起きた「プラヤ・ヒロン(ピッグス湾)侵攻事件」にまつわる記事を書きました。
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10870638404.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10872792016.html

今日のテーマも、ぜひ5月中にアップしておきたかったテーマ。
「またぁ?!」と言われそうだけど、またしても「PM事件」+<その後のキューバ映画の動向>です。

参照したのは、ファウスト・カネルという、ICAIC出身者(監督)で1968年にフランスに亡命した人物の執筆記事(タイトルは『終りの始まり』)。
http://www.diariodecuba.com/cultura/4779-el-comienzo-del-final
写真も拝借しました。

 

これまでにも同氏がICAICについて書いた記事はいくつも読んでおり、面白いし紹介したかったのですが、やはり亡命者にありがちな“誇張”や“悪意”も雑じっていそうで、見合わせてきました。
が、今回は「新説」であることと、ある程度「裏づけ」も取れ、紹介する価値があると判断したので、彼の論旨に沿ってまとめてみました。

 

★   ☆   ★   ☆   ★   ☆   ★   ☆

 

革命後の文化と政治権力の関係を決定付けた短編ドキュメンタリーPM 


    MARYSOL のキューバ映画修行-PMポスター

1961年5月10日
オルランド・ヒメネスとサバ・カブレラ(作家、故ギジェルモ・カブレラ・インファンテの弟)が製作していた短編ドキュメンタリーPMが完成。ファウスト・カネルは、G.C.インファンテ.に誘われ、試写に行く。尚、同ドキュメンタリーは、テレビ番組「ルネス・エン・テレビシオン」の製作で、同番組で放映することになっていた。


試写の場所「テレコロール」は、元々16ミリフィルムの現像・編集会社。創立者のガスパール・プマレッホは、革命前のキューバテレビ界の大物で、キューバを世界で2番目にカラーテレビ放送を行った国にした人物だったが、革命政府に会社を接収された時にはすでに国外に去っていた。

 

PMは、試写をした時点で、その自由で独立したスタイルが、コントロールされたドキュメンタリーに馴染んでいるICAICの幹部層を不必要に刺激することが予測された。だが、まさか政治問題に発展するとは誰も夢にも思わなかった。

 

5月22日(月曜)

いつものように「レボルシオン」紙の文化特集版「ルネス」が発行され、その夜12チャンネルの「ルネス・エン・テレビシォン」でPMが放映された。視聴者は、「(ハバナの夜の)雰囲気をよく捉えている」「編集が的確である」「映像詩のようだ」という印象をもった。

    MARYSOL のキューバ映画修行-G.C.I,オルランド、サバ

(左から)ギジェルモ・カブレラ・インファンテ、オルランド・ヒメネス、サバ・カブレラ

 

この後、オルランドとサバは、短編専門の上映館Rexに上映をもちかける。
だが、すでに当時すべての映画館は、映画検閲委員会(ICAIC傘下)の許可を必要としていた。ICAIC総裁のアルフレド・ゲバラは、これをライバル、カルロス・フランキ 攻撃の絶好のチャンスと見る。

A.ゲバラとC.フランキは、それより1ヶ月前に起きた、キューバ革命の社会主義的性格の公言とヒロン侵攻事件により変化していた文化政策の指導権をめぐり、ライバル関係にあった。

アルフレド・ゲバラは、フィデル・カストロに相談せず、PMを上映禁止にする。
A.ゲバラの証言(2007年)
「私が対立していたのはルネスではなくフランキだった」
「フランキは、そのころ勢力を拡張中のPSP(人民社会党)に牛耳られるのを嫌がった。PSPはソ連寄りだった」。

 

A. ゲバラは、サバとオルランドに“ファシスト”と呼ばれたことに激怒、拳を振り上げる(殴った?)。
騒ぎは大きくなり、国立図書館で3回に渡り討論会が行われる。フィデル・カストロは、単なる短編キュメンタリーを国家的問題にすり替え、多くの人間を巻き込んだ。
そして最終的に有名なフィデルの一言が発せられる。
「すべては革命と共に。革命に逆らうものはあってはならぬ」

 

「テレビシオン・レボルシオン」の文化的番組が消滅し、「ルネス・デ・レボルシオン」が廃刊となり、親ソ連系の文化雑誌HOYの廃刊も決まった。そして代わりに「Gaceta de Cuba」が創刊されることになる。
翌々年、カルロス・フランキは、レボルシオン紙の編集長を辞任させられる。
キューバの文化は自立性を失い、垂直的になる。
尚、国立図書館の討論についてA.ゲバラは後に「当時、PMの上映禁止がもたらし得る結果と混乱を予見するだけの明晰さを欠いていた」と告白。

 

1963年
アルフレド・ゲバラ、「すべては革命と共に」の擁護者という立場を保ちつつ、名誉挽回を図る。
新しく仲間入りした東側の兄弟国家から届く教育的な映画が退屈なせいで、映画館は不人気だった。
この問題を解決すべく、批判的映画を製作することを許可。
その根底には、そうした批判的作品をヨーロッパの映画祭に出品し、もし受賞すれば、国際的評価という保証付きでお披露目できるという目論見があった。結果的に、キューバ革命の名声は維持され、ICAICが外国で与えるイメージのおかげで強化された。

 

文化省はまだ存在しておらず、親ソ連派は主導権を獲ろうと狙っていた。スターリン派のPSP党員は、セベリーノ・プエンテを操り、PM事件でしくじったアルフレド・ゲバラに攻撃をしかける。(これについてはいずれ書きます。)
映画監督たちはこの攻撃に抗議、ICAICを擁護する。一方、HOY紙編集部では、ブラス・ロカが、ミルタ・アギーレやエディス・ガルシアに、A.ゲバラを攻撃する記事をかかせた。

それに対し、A.ゲバラは、なんと敵の本陣であるHOY紙に、次ぎのような記事を掲載させた。
「貴兄のような輩にとり、人民とは赤ん坊同様、常に操縦されることを必要とする存在で、しかも十分消毒を施し、社会的リアリズムで味付けられたイデオロギー粥をもって養われるべき存在なのだ」。
こうして両者の論争はエスカレート。緊張が極度に高まったとき、またしてもフィデル・カストロが間に入り「停止」を求める。
この後、A.ゲバラの存在は後退していく。PMの失態が尾を引いているのは明らかだった。

 

1968年
前年10月にチェ・ゲバラがボリビアで殺され、ラテンアメリカ革命の希望が潰える。
その一方で、パリ、メキシコシティ、プラハ、米国では反体制運動が盛り上がっていた。
キューバは、経済苦境の唯一の打開策としてソ連に従属するか否かの選択を迫られていた。そのうえフィデル・カストロがソ連のチェコ侵略を支持したことで、もはやキューバ革命が独立した未来を失ったことは明らかだった。
この年、キューバ映画の重要な作品が次々と海外で高い評価を受ける。

 

1968年の革命攻勢(Ofensiva Revolucionaria)で、サトウキビ収穫1000万トンを達成するため、都市経済が犠牲になる。そもそも実現不可能な目標だった。
一人の男の思い上がりとその彼の政府の失敗は疑うべくもなかった。

 

そして灰色の5年間(Quinquenio grís)が訪れる。
文化省は創設されたが、A.ゲバラは大臣になれなかった。


1980年代初め、A.ゲバラはICAIC総裁の地位を追われ、パリに送られる。
A.ゲバラは、キューバと言えば、PM事件, UMAP(強制労働キャンプ), パディーリャ事件についてばかり訊かれることについて、「もし分かっていれば、違う行動をとったのに」と嘆く。

 


半世紀の歳月が流れた今も、まだPM事件が話題になる。
PM上映禁止事件。それは、キューバ文化の自主性の終焉を意味していた。

 

§Marysolから一言
5月19日、シネマテカ・デ・クーバでPM が上映されたそうです。
併映はNosotros la música

次回は、上の文中に引用されていた、A.ゲバラの発言を紹介する予定。
PM事件そのものより、背景にあった錯綜した権力闘争が分かる内容。
いずれにせよ、ルネスはそのスケープゴートにされたのです。
無念!