1928年2月25日生、ラス・ビリャス州~2021年1月25日没、バルセロナ/享年92才
本名:German Puig アーティスト名:Herman Puig
絵画と彫刻を学ぶ。
1948年、キューバで最初のシネクラブをリカルド・ビゴンと創設。
ネストール・アルメンドロス、ギジェルモ・カブレラ・インファンテ、カルロス・フランキ、トマス・グティエレス・アレア、ラモン・スアレス、エドムンド・デスノエスらが出会い、映画史上の重要作品に接する場を作った。
さらに、プイグの働きかけにより、1951年にはキューバで最初のシネマテカとしてFIFA(国際フィルム・アーカイブ連盟)の承認を得、パリのシネマテークからフィルムが貸し出されるようになった。
また、1955年にはNYの近代美術館(MOMA)を訪ね、フィルムの貸し出し契約を取り付けた。
だが、残念ながら、プイグのキューバにおける活動は1956年で終わる。
その後は活動の場をフランスやスペインに移す。映画を離れてからは、写真家として活躍。男性ヌード写真のパイオニアになるが、フランコ下のスペインでは“ポルノ写真”と見なされ、逮捕を免れるためにフランスに戻る。フランコの死後、バルセロナに居を移し、晩年まで過ごした。
トレーラー:ドキュメンタリー『El gran impaciente』(2020年) 監督:González Arenal
ヘルマン・プイグのことは、これまでも何度か紹介してきましたが、この機会に彼のキューバ時代(革命前)の足跡をたどりながら、その功績を記しておきたいと思います。
それは、私からのオマージュであるだけでなく、革命後の最初の検閲事件である「PM事件」の背景を知る一助にもなるからです。
つまり、「ルネス(←シネクラブ)」対「ICAIC(←ヌエストロ・ティエンポ)」の背景とも関係があるからです。
ハバナと若きシネフィルたち
① 革命前のシネフィルたちの出会いと覚醒の場:ハバナ大学夏季映画講座
1942年7月から1957年までハバナ大学で「映画:我々の時代の産業と芸術(El cine: industria y arte de nuestro tiempo」と題する夏季講座が毎年(計16回)開かれた。
講師はホセ・マヌエル・バルデス=ロドリゲス。
内容的には、理論を教えるほか、名画の上映(12回)と討議が行われた。
受講生からは、ヘルマン・プイグやリカルド・ビゴンを始め、その後のキューバ文化のキーパーソンとなる人物が多く輩出した。
② 1948年、受講生のヘルマン・プイグとリカルド・ビゴンが「シネ・クラブ」を創設。
このシネクラブを核に、映画ファンが集まり、やがてアマチュア映画製作に繋がる。
③ 1950年、プイグ、パリへ映画留学に
IDHEC(高等映画学院)が50~51年の間、留学生を受け入れなかったので、51年にパリ大学で(?)映画の講座を受講。
シネマテーク館長のアンリ・ラングロワと知り合い、シネクラブへのフィルム貸し出しを依頼する。
・ビオイ・カサレスの短編「パウリーナの思い出に」(レオポルド・トーレ・ニルソン監督)の映画化に協力
1951年、ラングロワの後押しもあり、シネ・クラブは「シネマテーク(スペイン語ではシネマテカ)」としてFIAFの承認を得る。これにより、パリのシネマテークからフィルムの貸し出しが可能になる。
※ だがその一方で、シネマテカの活動はバルデス・ロドリゲスの妨害を受けた。
プイグの不在中の1951年、ハバナではカルロス・フランキの発案で文化団体「ヌエストロ・ティエンポ(以下、NT)」に映画部が創設され、シネクラブと連携する。
※シネクラブがイデオロギーとは無縁の作品を上映していたのに対し、くNT映画部は〈社会悪を告発する、イデオロギー色の強い作品〉を上映するなど、PSP(人民社会党=共産党)の意向を反映するようになる。(G.C.インファンテのようにNTから離反する者も出る)
④ 1952年、プイグ、パリから帰国。 シネマテカをNTから分離・独立させる。→アルフレド・ゲバラと対立。
アマチュア映画や広告映画を製作
☆1952年:アマチュア映画『Sarna(疥癬)』
ヘルマン・プイグ、エドムンド・デスノエス、(製作・編集:ラモン・スアレス)
☆1955年:アマチュア映画『El Visitante(訪問者)』(未完)
ヘルマン・プイグ、ネストール・アルメンドロスほか
*下の動画でこの作品の一部が見られる(2:07~)
プイグ自身が写真家として出演している。
☆1955年:エッソの後援で短編広告映画『Cartas de una madre』 を撮り、賞賛される。
カルロス・フランキと共同で設立した短編映画製作会社で製作。
1955年10月、NYのMOMAを訪問し、シネマテカへのフィルム貸し出し契約を結ぶ。
キューバ文化庁の協力を得て、国立美術館での上映会が可能になる。
※バルデス・ロドリゲスから再び攻撃される。
「ニューヨーク近代美術館所蔵の名作映画上映会」開催:12月~翌5月26日
★プイグの証言:シネマテカ内部の分裂
「1956年前半期、シネマテカの一部の幹部(G.C.インファンテやT.G.アレアほか)が“政治的自覚”の名の下にバティスタ政権に対する抗議行動として上映寸前の映画を略奪し、上映会をボイコットすることを決議した。自分は非政治的人間だったので、その行動を理解できなかった」
幸いフィルムは救えたが、この事件が原因で文化庁の後援を打ち切られ、シネマテカの活動は幕を閉じる。
⑤ 1957年5月、アングロワを頼り、パリに戻る。
⑥ 1959年、革命勝利
革命後、ハバナに戻ったビゴン(1960年3月病死)からICAICとの対立状況を知らされ、プイグはパリに留まる。そして遂に祖国には戻らなかった。 その後の活躍については割愛。
※ 革命後のキューバでは〈「シネマテカ」はICAICが創設した〉とされており、公式の映画史からプイグやビゴンの名は消されている。
Marysolより
ブログを始めた頃から革命前のシネクラブの若者たちに興味がありましたが、私にとって“伝説の人”だったヘルマン・プイグと4年ほど前にフェイスブックで友達に! そのきっかけは、2016年にフィルムセンターで開催された「キューバの映画ポスター」展のカタログに〈キューバで最初のシネマテカのことが書かれていて、微力ながら私もそれに協力した〉と、誰かのFBにコメントしたこと。それを知って喜んだプイグからは、次のようなメッセージが届きました。
「ベネチアであの偉大なる黒澤の『羅生門』に眩惑されて以来、私は日本の文化を愛している。私はキューバのテレビや報道で、あの素晴らしい芥川を広めたパイオニアだ。その後、あのとてつもない三島を崇拝した。まだまだある!今日、私は『羅生門』で殺された男と〈キューバのシネマテカの暗殺〉という奇妙でミステリアスな類似を目にした。シネマテカは今、証人たちを通して、その真実を強く訴えている。君は最も重要な証人だ。
DESDE QUE QUEDÉ DESLUMBRADO EN VENECIA POR RASHOMON DEL ENORME KUROSAWA AMO LA CULTURA JAPONESA FUI PIONERO AL DIVULGARLA EN CUBA EN MIS ADAPTACIONES PARA PRENSA Y TELEVISION DEL INMENSO AKUTAGAWA .DESPUÉS ADORÉ AL INCREIBLE MISHIMA ...¡Y UN GRAN ETCETERA! HOY HE VISTO UN EXTRAÑO Y MISTERIOSO PARALELO DEL HOMBRE ASESINADO EN RASHOMON Y EL ASESINATO DELA CINEMATECA DE CUBA QUE HOY CLAMA POR SU VERDAD A TRAVÉS DE SUS TESTIGOS..¡SACHIKO ES HOY EL TESTIGO MAS IMPORTANTE !!!!
その後も「会いにおいで」とメッセージを頂きましたが、我が身の無知・無教養が恥ずかしくて、とてもバルセロナまで行く気にはなれませんでした。デジタル空間ですれ違えただけでも奇跡だったし、幸運でした。合掌。
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