社会主義:正統(ソ連派)と異端(独自路線派) | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

テーマ「革命と文化」のこの稿の続きです。 

上の稿で、1961年6月16日、ORIの文化部長にアニバル・エスカランテ(旧PSP=人民社会党=旧共産党)の弟セサルが、次長にエディス・ガルシア・ブチャカが就任した後、「『P.M.』事件」が起き、知識人との討論会が3回に渡って行われ、最終的にフィデルがその後の文化的指針とも言うべき「知識人への言葉」を発したことまで紹介しました。

その後の影響や結果については下のサイトに書いたので参照してください。

http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10121316872.html

 

さて、それまで革命の文化を牽引してきたグループ「ルネス」が消滅し、以後は旧PSP

派と組んで「ルネス」を潰したアルフレド・ゲバラ(ICAIC長官)が、社会主義リアリズムを信奉する旧PSP派と対決していきます。(ならば、ルネスを潰すべきではなかったのに、当時はそれがどんな影響を及ぼすか見通すことは不可能だった。A.ゲバラはこの稿で明らかなように、「ルネス」をライバル視していたが、敵視していた相手は(G.C.インファンテではなく)カルロス・フランキだったこと、「P.M.事件」の対応については後悔している、と後に告白している。)

最初の有名な対立は1963年に起きますが、これについては別の機会に。

参考記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10907440470.html

 

革命の急激な政治的変化は、「7月26日運動」から生まれた新聞「レボルシオン」(注:ルネスの母体)を、革命の “メッセンジャー”から、いつしか“敵対分子”という位置づけに変えてしまっていた。彼らの多彩で開放的な文化への姿勢は、古い共産党員の硬直した考え方と対立せざるを得なかった。(K.カロル)
参考記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10116125887.html

 

要するに1961年以降は、急速に勢力を拡張しつつあった旧PSP派が文化面においても権威主義的なソ連型モデルを押し付けようとしたのに対し、開明的な知識人やアーティストはキューバおよびラテンアメリカの独自性を追求し開拓しようとした。

この両者の姿勢の違いと対立関係こそが革命の文化を理解するうえで鍵となる。

 

ICAIC(映画産業庁)を率いたアルフレド・ゲバラは“異端”であることを革命文化の特徴とし称揚した。そこにはソ連を盾に“正統”を自認する旧PSP派への対抗意識と否定があったのだろう。キューバ映画はソ連の「社会主義リアリズム」に抵抗し続けた。

尚、カルロス・フランキとG.カブレラ・インファンテも旧PSPを嫌い、社会主義リアリズムを否定していたのだが、6月の討論会で「ルネス」の前衛志向が一部から「欧米かぶれ」「キューバの現実から遊離している」と非難された。

この年、チェの発案で創設された通信社「プレンサ・ラティーナ」も解体された。

革命から生れた主要文化グループは、ICAICと「カサ・デ・ラス・アメリカス」のみになり、「ルネス」消滅後、後者に活動の場を移した者もいた。

 

☆参考情報

A.ゲバラは、ソ連に傾倒する旧PSP派を「善人だが無能でスターリニズムに歪められていた」と見なしていた。「PSPが革命にスターリニズムを押し付けた」。

A.G.の注目すべき発言:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-11866274392.html 

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「カストロの道★ゲリラから権力へ」の著者K.S.カロルは、旧共産党勢力(PSP)が実験を握った時期(1961年から翌年3月まで)を「ミニ・スターリン主義」と呼んでいる。

短期間とは言え、こちらここで見たように、開明的な人材が職場を追われ、後のキューバの発展にとり大きな損失を招いた。

 

主な人物のその後(1965年頃まで) 

カルロス・フランキ:「レボルシオン」紙編集長を続けるが、63年に辞任に追い込まれる。

 

 ギジェルモ・カブレラ=インファンテ(作家)

   「ルネス」編集長の職を失い、UNEAC副会長に就任するも、妻(女優のミリアム・ゴメス)の稼ぎに頼る。本人いわく「社会主義キューバで最初のひもになった」。

62年、外交官として在ベルギーキューバ大使館に赴任。65年亡命

 

ネストール・アルメンドロス(映画カメラマン)

     「PM事件」でアルフレド・ゲバラを敵に回し、年末の映画ベストテン選定で、ソヴィエト映画ではなくトリュフォーの『大人は判ってくれない』を推した為「ボエミア」誌をクビになり、完全に失職。

62年にフランスへ渡る。

 

トマス・グティエレス・アレア (キューバ映画の巨匠)

      ICAICが『P.M.』上映禁止の説明コミュニケを作成する際、アレアの参加を排除したことに抗議して、ICAIC幹部を辞任。詳細はこちら

 

エドムンド・デスノエス(作家。「低開発の記憶」原作者)

   「ルネス」消滅後、教育省や出版局、カサ・デ・ラス・アメリカス等で活動

 

マリア・ロサ・アルメンドロス(ネストールの姉で、デスノエスの最初の妻)

   カサ・デ・ラス・アメリカス(文化機関)勤務 

 

リカルド・マセッティ(プレンサ・ラティーナ主筆)

   セクト主義によって辞任に追い込まれ、アルジェリア独立戦争に参加。その後アルゼンチンに戻りゲリラ活動を開始するも1964年に消息を絶つ。

 

ガブリエル・ガルシア=マルケス

 プレンサ・ラティーナを辞職し、メキシコに移る。参考記事はこちら