以下の年表は、ファウスト・カネルの著書「Sin Pedir Permiso」巻末の年表「60年代キューバ映画」と記述に添い、さらに彼のインタビュー記事での見解を補って作成し、拙ブログ関連記事と写真を参考に添えました。よって、ファウスト・カネルの見解として参照してください。
1942年
ハバナ大学で、ホセ・マヌエル・バルデス・ロドリゲス教授が「映画:我らの時代の産業と芸術」と題する夏季映画講座を開講する。
当時の知識人は映画を単なる娯楽と見なしていたが、バルデス・ロドリゲスが初めて芸術として論じる。
60年代のキューバ映画に関わる者の多くが、本講座を受講する。
*講座は、16回の映画理論の講義と12本の名作映画の上映およびディスカッションから成り、1957年まで続いた。
革命前のシネフィルたちの出会いと覚醒の場 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
1948年
3月、ヘルマン・プイグ(写真左)とリカルド・ビゴンが「ハバナ・シネクラブ」を設立。
上映会で、バルデス・ロドリゲス教授の講座の受講生らが再会する。
1949年
プイグとビゴンは、「シネクラブ」の規約を登記し、映画アーカイブとシネマテカ(フィルムライブラリー)の創設意図を強調する。
「ハバナ・シネクラブ」の成功を前に、バルデス・ロドリゲスは、映画関係プレスに対し、上映活動の宣伝をしないよう、自らの影響力を行使する。
1950年
プイグ、フランスに留学
1951年
2月、文化芸術団体「ヌエストロ・ティエンポ(我らの時代)」創設
当初は非政治的な団体で、映画部では、講演や討論、機関紙の発行を行う。
「ハバナ・シネクラブ」が「ヌエストロ・ティエンポ」に統合される。
「シネクラブ」の上映会は「ヌエストロ・ティエンポ」の大事な収入源となる。
プイグ、仏シネマテーク館長のアンリ・ラングロワと親交を結ぶ。
ラングロワが外交アタッシェケースで「ハバナ・シネクラブ」に映画作品を送る。
9月以降、「ヌエストロ・ティエンポ」で仏シネマテークが送る作品を上映する。
バルデス・ロドリゲスは、自分にフィルムを渡すようフランス大使に談判する。
外交的不都合を避けるため、ラングロワはプイグに、「シネクラブ」をシネマテークとして登録し、国際フィルム・アーカイブ連盟(FIFA)に参加し、直接関係を結べるようにすることを勧める。
プイグはハバナの仲間に手紙で、一刻も早い実行を求める。
ラングロワはFIFAに働きかけ、ケンブリッジで開催される組織大会にプイグをオブザーバーとして招待させる。
FIFAは、まだ登録手続き中の「シネマテカ・デ・クーバ」の加盟提案を“原則的に”受諾するが、あらゆる文化団体から独立した組織である必要があった。
新指導組織のメンバーは、会長にヘルマン・プイグ、副会長にカブレラ・インファンテ、書記にファン・ブランコ、常務理事にネストル・アルメンドロス。
アルメンドロスの母がシネマテカの規約をフランス語に訳す。
ヘルマン・プイグ:「シネマテカ・デ・クーバ」創設者 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
1952年
3月10日 バティスタによる軍事クーデター
5月 フランスから帰国したヘルマン・プイグは、FIFAの指針に従って「シネクラブ」と「ヌエストロ・ティエンポ」の連携を断つ。両グループの関係悪化。ちなみに「ヌエストロ・ティエンポ」は密かにPSPに従属していた。
資金および支援不足に加え、クーデターによる苦境で「シネマテカ・デ・クーバ」は活動を中断する。一部のメンバーたちは、実験的な短編映画を製作する。
1953年
フィデル・カストロによるモンカダ兵営襲撃。
人民社会党(PSP=共産党)は、これを暴徒的行為と見なす。
1955年
「シネマテカ・デ・クーバ」は、文化庁の賛助の下で活動を再開する。
プイグは会長として、カブレラ・インファンテは理事として、ニューヨークの現代美術館(MOMA)を訪れ、キューバで上映するための映画の貸し出しが許可される。
ヌエストロ・ティエンポ派の活動
『エル・メガノ』 (1955年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
1956年
1月23日 「ハバナ・シネクラブ」が、正式に「シネマテカ・デ・クーバ」となる。
※現シネマテカのアーカイブには、キューバ国立公文書館登録番号933番にシネマテカ・デ・クーバが登録されたことをハバナの州知事に報告した文書がある。また、現シネマテカ館長で映画史研究家のルシアーノ・カスティーリョは、自著 “Cronología del Cine Cubano III (1945‐1952) で同文書に敬意を表すと同時に、アルフレド・ゲバラの命により事実が15年間隠蔽されていたことを明らかにした。
2月25日 フルシチョフが、ソ連共産党第20回大会でスターリンを告発する秘密報告をする。
12月2日 グランマ号の上陸 …国内の政治的緊張が再び高まる。
12月、「シネマテカ・デ・クーバ」は、資金が枯渇し活動停止(二度と復活せず)
ヘルマン・プイグ:訃報と功績 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
カルロス・フランキはシエラ・マエストラに行き、ラジオ・レベルデ(反乱軍ラジオ放送)を開設、機関紙「レボルシオン」を編集する。
カルロス・フランキ | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
アルフレド・ゲバラはメキシコに亡命し、反乱軍に武器を送る。
アルフレド・ゲバラ経歴(革命と映画) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
ICAICのルーツ | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
1959年
1月1日 革命成就(臨時大統領:マヌエル・ウルティア、首相:ミロ・カルドナ)
革命が勝利すると、カルロス・フランキとアルフレド・ゲバラは、文化方面の高官となる。
フランキは、「レボルシオン」の編集長になり、その傾向は社会民主主義だったが、
アルフレド・ゲバラはマルクス・レーニン主義のままだった。
※タララにあるチェ・ゲバラの家で社会主義的法令を作る影の政府要員として、アルフレド・ゲバラはフィデルに呼ばれる。同グループの存在は、カルドナ首相さえ知らず、フランキやPSP派も知らなかった。
キューバ革命を世界に伝えるため映画を必要としていたフィデルは、その役目を忠実なフィデル主義者のアルフレド・ゲバラに託した。
2月7日 1940年憲法を発展させた共和国基本法の制定
13日 辞任したミロ・カルデナに代わり、フィデル・カストロが首相に就任
3月24日 キューバ映画芸術産業庁(ICAIC)創設
長官:アルフレド・ゲバラ、カブレラ・インファンテ:顧問
トマス・グティエレス・アレア:顧問
ICAIC(キューバ芸術映画産業庁)の設立 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
30年代から40年代の名監督ラモン・ぺオンはメキシコから帰国し、フィデル・カストロに新しい映画産業への協力を申し出る手紙を書く。フィデルはその手紙をA.ゲバラに渡すが、ぺオンが返事をもらうことはなかった。
ビゴンもメキシコから帰国するが、アルフレド・ゲバラは面会を拒む。「ヌエストロ・ティエンポ」から「シネクラブ」を分離させたことを許していなかったのだ。
キューバを訪問したジェラール・フィリップをアテンドするビゴン
ビゴンは、メキシコでルイス・ブニュエル監督の『熱狂はエル・パオに達す』の撮影助手だったことから、主演のフランス人俳優ジェラール・フィリップと親しかった。帰国後、彼からキューバ訪問の意志を知らされたビゴンは、フランキとカブレラ・インファンテに伝える。
その頃「ルネス」はサルトル招聘で多忙だったため、ジェラール・フィリップ招待をICAICに任せる(7月に実現)。ビゴンは、この快挙をICAIC参入の機会到来と見る。
カブレラ・インファンテは、ビゴンのICAIC加入を認めるようアルフレド・ゲバラに要求。
ゲバラ、面会に応じるも喧嘩別れに終わる。
カブレラ・インファンテ、ICAICを抗議の辞任、
以後、「ルネス」紙の文芸特集版「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」の指揮に従事
革命前に対立していた「シネマテカ・デ・クーバ」のリベラル派と「ヌエストロ・ティエンポ」」のマルクス主義派が、「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」対「ICAIC」に分裂
1959年生れの文化グループ・メディア(一部 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
「ルネス」が牽引した時代(1959~60年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
カルロス・フランキ(中央)とサルトル&ボーヴォワール
右からカブレラ・インファンテ、ファウスト・カネル、アルフレド・ゲバラ
7月16日 ウルティア大統領、社会主義的法案の通過を拒否。
フィデル、首相を辞任する。
17日 フィデル、テレビでウルティア大統領を非難する。ウルティア大統領を辞任。
18日 オスバルド・ドルティコス博士が新大統領に任命される
23日 フィデル、首相に復帰
ファウスト・カネルとの対話(1) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
1960年
2月 ICAIC、シネマテカを創設
*ヘルマン・プイグとリカルド・ビゴンが創設したシネマテカを無視
4月 リカルド・ビゴンの死
カブレラ・インファンテ、「レボルシオン」紙上で、ビゴンに対するアルフレド・ゲバラの不当な行為を非難する。
ビゴンとカブレラ・インファンテ
6月? 新革命法制定
カストロ主義が極左へ向かい、「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」の知識人たちは不快感を抱く
ICAICは、映画ニュースに参入し「ICAICニュース映画」を創設
アルフレド・ゲバラは、知性と啓蒙を目指しつつ、アジテーションとプロパガンダの映画制作を企画。創造性を目指しつつ指揮された政治社会映画。
キューバ革命の名声を世界に伝えるドキュメンタリーや映画。
10月 米国、対キューバ貿易を禁止
フィデル、革命防衛委員会を創設(9月)
12月 「レボルシオン 革命の物語」(トマス・グティエレス・アレア監督)
「キューバは踊る」(フリオ・ガルシア・エスピノサ監督)
「レボルシオン」紙と「ルネス」の批評家たちは、両ICAIC作品を時代遅れで形式主義だと非難した。すでに、旧来の映画話法とは異なる新しい映画運動が起きていたからである。
両グループ間の緊張は最高潮に達する。
Marysolより
後日アップする「年表後半」は、1961年から筆者カネルがキューバを去る1968年まで。
1961年に起きる「PM事件」の遠因が、上記のシネクラブ(ルネス)対ヌエストロ・ティエンポ(ICAIC)にあります。