「ルネス」が牽引した時代(1959~60年) | MARYSOL のキューバ映画修行

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前回の記事 の続き


Che y Franqui 革命闘争を担った「7月26日運動」の機関紙「レボルシオン」は、闘いに勝利するや、新政権の《声》となった。それから3か月半後の3月28日、同新聞から文化特集のタブロイド紙「ルネス・デ・ラ・レボルシオン(以下ルネス)」第1号が誕生した。

「ルネス」とは「月曜日」、つまり仕事開始の日。


発案者は「レボルシオン」紙の編集長カルロス・フランキ (写真右側)。

彼が意図したのは新しいジャーナリズム。

イメージしたのは、大判の写真に斬新なデザインの紙面。

編集長には、ギジェルモ・.カブレラ=インファンテ が適任と考えた。

二人は40年代からの知り合いで、雑誌「カルテレス」で共に働いた仲だった。

初期のアートディレクターはフランス人のJacques Brouté


以下の写真の多くはJiribilla, No.364 から転載
      Lunes


「ルネス」はその斬新な紙面デザインもさることながら、内容も実に新しく意欲に溢れていた。扱うテーマは文学のほか、音楽、舞踊、映画、建築、美術、写真、歴史、農業、政治と多方面に渡り、地域的にも欧米のみならず、アジアにまでカバーしていた。


文学に関しては、国内のあらゆる世代、ジャンル、傾向の作家を紹介しただけでなく、北米、ヨーロッパ、共産圏、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの作品も網羅。パブロ・ネルーダ、ボルヘス、オクタビオ・パス、ピカソなど同じスペイン語圏の知識人の協力を得る一方で、ヨーロッパの著名な作家、サルトル、カミュ、ジョイス、カフカ、プルースト、エリオットなどの作品を翻訳し紹介した。(「ルネス」には革命社会に参加すべく、海外から帰国した人材が集まっていた。デスノエスもその一人)

政治面では、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ、毛沢東、レーニン、トロツキーなどの政治的文書も掲載した。

     
                        サルトル、ボーヴォワール、フランキ、バラガーニョ(詩人)


「ルネス」は、まさにポストモダン的な「ニュージェネレーション」の象徴であり、メンバーは民主的な新しい社会を建設する意欲に満ちていた。


K.S.カロル:
〈ルネス〉の編集人は非常に若かった。編集長のギリェルモ・カブレラ・インファンテはやっと30歳になったばかりだったし、副編集長のパブロ・アルマンド・フェルナンデスはさらに2歳年下だった。エベルト・パディーリャとホセ・アルバレス・バラガニョも、フェルナンデスと同年だった。この3人は詩人で、完全に革命を支持していた。


「ルネス」の基本姿勢はG.C.インファンテの次の言葉に示されている。
「我々は文学的にも芸術的にもグループを形成してはいない。むしろ同年代の友人同士という関係である。特定の政治思想もない。ただし現実へのアプローチ・システムを拒むものではない」「そのシステムとは、唯物史観的弁証法、あるいは精神分析、もしくは実存主義を指す」





彼らが作った週刊誌は折衷的な性格のもので、そこには、前衛芸術や現代左翼の価値観に関する彼らの関心が、必然的に反映されていた。彼らは、その教養の上からも、西欧で支配的な論調や芸術の潮流に影響されていた。彼らの目から見れば、芸術、革命などに関するトロツキーの著作は、キューバ大衆に知らされる価値のあるものだった。彼らはシュールレアリスムにも大きな関心を寄せ、アンドレ・ブルトンに多くのページをさいていた。しかし、その一方では、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』や、ジョン・リード、マヤコフスキーからイサク・バーベリに至る、ボルシェヴィキ時代の作品が、なおざりにされているわけではなかった。1960年1月8日には、アルベール・カミュの死に衝撃を受けた編集者たちは、全紙をカミュの特集で埋めた。その3週間後には、アナスタス・ミコヤンの訪問を機に、ソ連特集号が発行され、ソ連の映画、演劇、文学などが論じられた。それから一ヶ月経つと、今度はサルトルがキューバを訪れたのを機会に、『イデオロギーと革命』と、編集部とサルトルの長い対談が掲載された。


「ルネス」には、表現の場を求めていた作家たちが集まり、ジャンルや思想、地域にこだわらず、多様な文化情報をキューバ国民に提供した。

「ルネス」が目指したことは、キューバ文化の牽引役となることで、その姿勢は開放的だった。


1960年3月23日。発行1周年を記念するアンケートに対し、フィデルは「キューバの文化を人民に届けようとする若者たちの努力、そして本と銃を結びつける努力を賞賛する」「革命、人民および文化という三つの同質のものを表現するためになされている、優れた努力例である」と評価。

チェ・ゲバラは「〈サルトル特集〉のように非常に優れた内容のときもあれば、キューバの現実から遊離したインテリ主義に陥っているときもある。しかしキューバの文化的現実に対する最上の貢献のひとつであることは事実だ」と回答した。
このように指導者たちは、「ルネス」が、知識欲に燃えていて、自ら物事を判断する力を持っている新しい世代の、ある種の要求に応えていることを認めていた。


一方、外国からの旅行者にとっては、「ルネス」の発行部数が大きな驚きの種だった。それは、日刊の「レボルシオン」とまったく同数で25万部に達していた。調査によれば、日刊紙の読者も、その文化特集版である「ルネス」を注意深く読んでいたのである。
その証拠に、1961年にカルロス・フランキの招きでキューバを(2度)訪れたサルトルとシモーヌ・ボーヴォワールは、多くのさして教養のないキューバ人が、「ルネス」のおかげで、ピカソとかヨーロッパの前衛芸術家などについて、多くのフランス人よりもよく知っていることが分かった、と驚嘆の意を表明した。



サルトルと

写真中央がサルトル、右隣はボーヴォワール

右端はネストールとマリア・ロサ の父、エルミニオ・アルメンドロス  (マリア・ロサのアルバムから)


尚、マリア・ロサ は数か月前に(おそらく去年)亡くなったと、先日 ミゲル・コユーラ監督から聞きました。

もう一度お目にかかりたかったです。

謹んでご冥福をお祈りいたします。