ファウスト・カネルとICAIC/50年代~60年代に関する「ある証言」 | MARYSOL のキューバ映画修行

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先日の投稿で1968年に亡命したキューバの映画人、ファウスト・カネルが出演したマイアミの番組を紹介しましたが、その後改めて同番組でカネルがインタビューされた映像が彼のFacebookでアップされたので、内容をかいつまんで(個人的関心を元に))紹介します。

*9月18日放送の映像 

https://www.radiotelevisionmarti.com/a/radio-tv-mart%C3%AD-programa-las-noticias-como-son-mi%C3%A9rcoles-18-de-septiembre-de-2019/247936.html

 

 

司会は、マルティ・ラジオ・テレビの記者のアマード・ヒル(以下G

ゲストは、Gいわく「60年代のキューバ映画史において非常に重要な映画人の一人でありながら、公式のキューバ映画史において〈意図的に忘れられた存在〉のファウスト・カネル(以下C)」。

 

*ファウスト・カネルがICAIC(キューバ映画芸術産業庁)に入所するまでの経緯

 ラ・サール学院で学んだのち電気工学を学ぶが、ラサール在学中の15歳のとき、ハバナ大学が募集した映画批評コンクールに応募。受賞の褒美として、ホセ・マヌエル・バルデス=ロドリゲス教授の映画セミナーに参加を許され、映画について学ぶ。

受講後、ラサール校に戻ったカネルは、シネ・クラブを創設し活動。すると(カトリックセンター映画ガイダンスの)雑誌「レビスタ・シネ・ギア(映画ガイド誌)」に参加を勧められ、1957年に加わる。 

 ロジェ・バディム監督、ブリジット・バルドー主演の映画『素直な悪女』(カネルいわく、性的に解放された若いフランス女性が主人公で、これまでの習慣とは異なる若い世代の存在を示した)について書くと、カトリックのモラル的視点からすれば、とんでもない映画だったにも拘わらず、掲載された(ただし、上映禁止すべきとの注釈付きで)。

 

G:革命前、キューバではどのような映画が撮られていたか?

C:ひどかった。まず資金がなかった。しかし技術者は素晴らしかった。彼らはキューバ映画だけでなく、キューバで撮影される外国映画でも仕事をしていたから、アメリカ人の技術者から学んだものが多く、ICAICに引き継がれる。

 

革命前のキューバ映画は、メキシコ映画の模倣だった。字幕が読めない人たちはメキシコ映画を見に行った。当時のメキシコ映画は非常に面白かったし、素晴らしかった(「メキシコ映画の黄金時代だった」とヒルが付け加える)。

だから、キューバで映画を製作したいと思う者は、メキシコ映画のような作品を撮らねばならないと考えていた。しかし、私は「それは間違いだ」と思った。メキシコの映画産業にキューバが太刀打ちできるはずがなかったからだ。その結果、失敗作やわざとらしいものに終わり、ひどいものだった。

 

一方で、新しいムーブメントがあった。自主製作で実験的な短編が作られ、一種のグループのようなものが生まれ、やがてICAICで働くようになる。

 

*ICAIC参加の経緯など 

C:革命が成就すると、最初の文化機関としてICAICが創設された。アルフレド・ゲバラの指導のもとに、顧問としてギジェルモ・カブレラ=インファンテとトマス・グティエレス・アレアがいたほか、弁護士1名と録音係がいた。その後、現像所のためにエンジニアが入り、私は6番目の参加者だった。

入所の経緯としては、アルフレド・ゲバラがプレス全体に声をかけ、革命広場にあるバカルディのバルに集めると、「ICAICを創設しているから入りたい者は誰でも来なさい」と言った。ただし「当面の給料は120ドルしか出せない」とのことだった。私は両親の家に住み家業を手伝っていたから経済的に問題なかったので、ICAICに入った。

当時のオフィスは3つ。アトランティック・ビルの5階にあり、ビルはまだ国に接収されていなかった。

 

G:アルフレド・ゲバラは、大学時代からフィデル・カストロと個人的な友人関係にあったが、ICAIC創設時、すでに構想をもっていたのか? 

C:構想はすでにあり、2つの面を持っていた。良質な良い映画を作ること(誰が良質で良い映画だと決めるのか)、そして、外国に対しキューバを代表し、キューバ革命に名声(威信)を付与すること。それがICAICのプロジェクトであり、フィデル・カストロが最後まで拘ったことだった。そうした考えは、ラテンアメリカ映画祭にも含まれていて、キューバの優位性を示すためのラテンアメリカ。

 

G:実際にICAICは良い映画を製作した。ところで、貴方が最初に撮った映画は? 

C:ドキュメンタリーでタイトルは『El tomate(トマト)』。59年の終わり頃で、ニューヨークから戻ったばかりのネストール・アルメンドロスがカメラを担当し、我々はカマグエイに赴いた。タイトルは「トマト」だが、テーマはトマトの協同組合で、農民たちは国家に属する存在ではなく、自分たちで共同販売し利益を分け合った。

 

G:貴方の映画のスタイルについて

C:ICAICでは、『トマト』のように、まず教育的な映画から始めねばならない。

それから『カーニバル』のように、全くのドキュメンタリーではなく、フィクションの物語りを交え、観客の関心を引き付けた。ちなみに『カーニバル』のオープニングのアニメは、ICAICが初めて製作したアニメだ。 (ビデオ参照)

 

64年になると、ICAICとしてもドキュメンタリーの経験はかなり積まれていたので、フィクションを撮るよう提案された。トライアルとして、1本の長編よりも3本の短編をオムニバス形式で撮ることになった。タイトルの『Un poco más de azul(仮:もう少し青く)』には〈赤い傾向を歓迎しない私の気持ち〉〈もう少し青く!という我々の願い〉が込められている。3篇は、革命前、闘争中、革命後を描くことにし、私は最後の「革命後」を選び、国を出て行こうとする人物を描いた。それまで誰も描いたことがなく、敢えて描く人もいなかったことを映画にした。

 

G:しかも家族間の葛藤も描かれていますね。国を出るかどうか迷うカップル。女性は彼に出て行かないと言ったが、最後には国を去る。こういう作品はそれまでなかった。 

C:そこがポイントで、だから上映禁止になり、一度も上映されなかった。今になって、ルシアノ・カスティーリョ(キューバ・シネマテカ館長)によって見いだされたものの、マップ(キューバ映画史)からは消えたままだ。

 映画の主人公は、反革命派でもなければ、バティスタ派でもない。ただの広告モデルで、(現実に)うんざりしていて、国を出たいと願っている。

 

―『El final』のラストシーンが映し出される―

 

G: 男は革命と共に残り、恋人と別れたばかりの主人公は、車でハバナ湾を横切るトンネルの中に入って行く。バックには〈米国企業の国有化を宣言するフィデルの演説〉が流れる。接収される企業名が「…」と読み上げられる度に、人々は"se llamaba(という名前だった)"と一斉に声を上げる。 このシーンは検閲されました。 

 

C: 先日も言ったように、アルフレド・ゲバラに「フィデル・カストロはダメだ」「彼はアンタッチャブルだ」「映画に登場させてはいけない」と言われた。アルフレドは、私がポジティブにフィデルを登場させていないことに気付いていた。彼のせいで、主人公のような人が大勢出て行きたいと思っていること、この国家的危機は彼の責任だ、と示唆していることに。

私は、フィデルのシーンをカットするよう言われ、仕方なくカットし、代わりに音楽で埋めて見せた。しかし、アルフレドから「上映するかどうか分からない」「様子を見よう」と言われた。これは彼の策略で、私の映画『Desarraigo』のときも同じだった。仕舞っておいて、外国の映画祭に出し、もし受賞すれば公開に踏み切るのです。

 

G:時間が来てしまいました。番組が皆さんのお役に立てれば幸いです。カネルさん、スタジオに来てくれてありがとうございました。

 

付録:カネルが語る1960年のICAIC

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10907440470.html?frm=theme