La imagen rota (英:ザ・ブロークン・イメージ)/1995年/ドキュメンタリー/46分
監督:セルヒオ・ヒラル
本編は以下のサイトで観られます。
内容
1959年の革命成就後まもなく設立され、キューバ映画を統括してきたICAIC(映画芸術産業庁)。そこでキャリアを積んだものの、辞めて国を去った映画人たちを、自らも同じ道をたどったセルヒオ・ヒラル監督が取材したドキュメンタリー。
出演者(亡命した映画人たち)
オルランド・ヒメネス・レアル(監督)、ファウスト・カネル(監督)、フェルナンド・ビジャベルデ(監督)、エドゥアルド・マネ(監督)、ロベルト・ファンディーニョ(監督)、ホセ・アントニオ・ホルヘ(監督)、ロベルト・ブラボ(編集)、アルベルト・メネンデス(撮影)、ラモン・スアレス(撮影)、マリオ・ガルシア・ホヤ(撮影)、カルロス・アルディッティ(芸術監督)ほか
構成
1.なぜICAICを辞め、亡命したか。 *60年代のキューバ
2. 「マリエル事件(1980年に起きた大量出国事件)」と亡命アーティストの増加
*ニコラス・ギジェン・ランドリアン
3.Grupo Ritual:オルターナティブ映画 *80年代のキューバ
亡命先での人生
*ネストール・アルメンドロスという成功例(フランコ、バティスタ、カストロから亡命)
4.もしキューバに戻ったら(キューバ映画の未来展望)
*ネストール・アルメンドロスの言葉
★以下は個人的メモです。(印象に残った発言やポイントなど。上の構成に則して)
1.
・ファウスト・カネルの発言:キューバは「ミサイル危機」(1962年10月)の際のソ連の態度への失望がきっかけでソ連から離れ、独自の動きをとる。→フィデルをリーダーとし、キューバを中心としたラテンアメリカ革命(チェ・ゲバラはその旗印)。
映画はリベラル度を増す(62~63年)。
・当時、映画は外国で見ることのできる唯一のキューバの表現。映画祭などでヨーロッパの知識人たちが観た。
・亡命の理由は各人それぞれだが、共通するのは革命への期待が徐々に失望に転じ、体制側の意見に従えなくなったため。
アルベルト・ロルダン(監督):「あの現実に加担できなかった。そんなときに《チェコ事件》が起きた」
ロベルト・ブラボ:「私の兄はアメリカで活躍する映画カメラマンだった。ゆえに私は冷遇され、18年間国から出してもらえなかった」
ロベルト・ファンディーニョの「映画人たちは自分が信じてもいないものを作っていた」という言葉は衝撃的だが、それを否定する(信念に従って仕事をしていた)証言者も複数。
2.
「過去はすでに克服されたものとし、映画化するのに問題はなかった。それがキューバ映画にリベラルなイメージをもたらした」。
「体制に反対の人は歴史から消された。消去不能なセリア・クルスまで!セリアやオルガ・ギジョットを知らない世代がいる」
セルヒオ・ヒラル監督の『Techo de vidrio(仮:ガラスの天井)』(1982年)は、腐敗した指導者を批判する内容だが、脚本の書き直しによる撮影の遅れなど、様々な困難に見舞われた。ようやく完成試写まで漕ぎ着けたが、上映許可は下りなかった。
「当時、革命はどんな批判も受け入れなかった」
「抑圧に慣れてしまい、それを意識しなくなるのが問題」
「最悪なのは自己検閲。検閲する必要が無くなる」
「余りにも長く同じ政権が続くと、次第に説明しなくなる」
「キューバには風刺画があったが許されなくなり、伝統が消滅した」
「20年同じイデオロギー・メカニズムが続いたら、検閲は不要になる」
「その結果、より表面的で、より無害で、馬鹿げてくる」
経済的問題が(映画との間に)ギャップを生み、挙句の果てに映画と観客の間に共犯関係が生まれた。
(上映中に観客が「それは無い」「タバコをくれ」などとスクリーンに向かって叫ぶので、どのテーマも扱えなくなる)
3.
公的映画(ICAIC)とは違う映画…若者のムーブメント
ホルヘ・クレスポ:「我々は革命のおかげで〈正直であるよう〉教育された」
「作品は敵のプロパガンダだと非難された」
2つのキューバ:リアルなキューバ(本国)と架空のキューバ(亡命者)
「どの国も反カストロ的ドキュメンタリーを上映したがらない(関わりたがらない)」
『Conducta Impropia』(監督:ネストール・アルメンドロス、オルランド・ヒメネス)
〈キューバには多くのカストロがいる。各自が自分の内なるカストロを監視せねばならない〉
4.
キューバに戻ったら、積極的に映画作りに関わりたいという人は少数派。
ネストール・アルメンドロス:「先のことは分からない。キューバにはクリエイティブな人がたくさんいる。問題はシステムが表現することを許さないことだ。しかし、もし奇跡的に変わる日が来たら、彼らは素晴らしい仕事をするだろう」