6月からロシア・ワールドカップの2次予選が始まります。日本は比較的恵まれたグループに入りましたが、アフガニスタンとシリアという政情不安な国が含まれており、試合以外のところで難しい対応を迫られるかもしれません。

 

日本はこれまで5大会連続でワールドカップ本大会に出場しており、今では予選を突破するのは当たり前という感じになっています。

 

しかし、30年前ではこんな状況は考えられないことでした。30年前の1985年は、メキシコ・ワールドカップ予選が行われた年でした。

 

その頃の日本サッカー界は暗黒の時代の最中にあり、Jリーグはまだ始まっていなく、日本サッカーのトップリーグは実業団チームのJSL(日本サッカーリーグ)でした。

 

JSLの試合の観客席では閑古鳥が鳴いている状態でした。観客数は数十人から数百人という状態で、一般の観戦客よりも選手の家族など関係者の方が多いということも珍しくありませんでした。

 

メキシコ・ワールドカップまでのワールドカップ予選の結果は以下の通りでした。

 

1962チリ・ワールドカップ予選

日本と韓国の2カ国だけが参加し、ホームアンドアウェーの2試合とも負けて予選敗退

 

1966イングランド・ワールドカップ予選

予選に不参加

 

1970メキシコ・ワールドカップ予選

1次予選でオーストラリアと韓国と同じグループに入り最下位となり予選敗退

 

1974西ドイツ・ワールドカップ

2次予選準決勝でイスラエルに敗れて予選敗退

 

1978アルゼンチン・ワールドカップ予選

1次予選で韓国とイスラエルと同じグループに入り最下位となり予選敗退

 

1982スペイン・ワールドカップ予選

1次予選準決勝で北朝鮮に敗れて予選敗退

 

チリ・ワールドカップ予選は参加国が2カ国だけと、ワールドカップ初出場のチャンスがありましたが韓国に負けてしまいました。それ以降は最終予選にすら進めず、ワールドカップ出場は夢のまた夢という状況でした。

 

現在の日本代表の試合では観客席が満員になることは珍しくありませんが、当時の日本代表の試合では空席が目立つどころか空席の方が多かったのです。メディアの注目も低く、一般のニュースで報じられることはほとんどなく、スポーツニュースでの扱いも小さいものでした。

 

一次予選の北朝鮮戦では、国立競技場で行われた日本のホームの試合では、珍しく試合前から多くの歓声が聞こえていました。予選も佳境を迎えていたので、さすがに日本を応援する観客が多く詰めかけたと思いきや、多くが北朝鮮を応援する在日朝鮮人でした。日本のホームにも関わらず約3万人の観客のうち7割くらいが北朝鮮のサポーターで、北朝鮮の応援の方が圧倒的に多かったのです。

 

この頃の日本代表の実力はアジアでも高い方ではなく、北朝鮮との試合でも北朝鮮が攻めて日本は必死に守るという試合展開でした。ホームの試合でも一方的に攻められていましたが、日本のカウンターのボールが雨でぬかるんだため急に止まったボールを日本が拾い、それを決めた虎の子の1点を守り切って勝ちました。


北朝鮮戦のゴールの動画です


このときにゴールしたのは、アギ-レ前日本代表監督の解任騒動の際によく名前が出た日本サッカー協会の原博実専務理事でした。この後の北朝鮮で行われた試合では、32本のシュートを浴びながら無失点で切り抜けて0-0の引き分けに持ち込み、1次予選を突破しました。

 

次に対戦するのは中国だと思われましたが、幸運にも力の劣る香港が勝ち上がってきました。香港とのホームアンドアウェイの試合を制した日本は、韓国との代表決定戦に進出してワールドカップ出場まであと一歩というところまできました。

 

韓国との代表決定戦では、ホームアンドアウェイで戦い、2試合の合計で韓国を上回れば初のワールドカップ出場を果たすことになります。

 

実力的には明らかに韓国が上で、しかも韓国はこの2年前に国内リーグをプロ化しており、全員がプロ選手でした。更に、過去のワールドカップ予選では、日本は韓国に勝ったことがありませんでした。

 

しかし、前年に行われた日韓定期戦では木村和司(元マリノス、当時日産)の30メートルのフリーキックによる得点などで、久しぶりに韓国に勝利しており、これまでの対戦とは違うのではという期待を抱いていました。

 

木村のフリーキックは当時の日本代表の数少ない武器で、一次予選ではコーナーキックを直接ゴールに蹴り込む離れ業を2回もやっていました。

 

韓国との第一戦は、日本の国立競技場で行われました。ちなみに、この試合と同じ日に阪神と西武の日本シリーズ初戦が行われており、当然のように日本シリーズがニュースでの主役でした。

 

選手たちが競技場に着くと、北朝鮮戦以上の歓声が選手たちの耳に届いていました。北朝鮮の試合と同じように、在日韓国人が多く詰めかけて韓国を応援する歓声だと思った選手もいました。ところがグランドに出てみると、多くの日の丸が振られ日本を応援する6万人を超える大観衆が選手の目に入ってきました。

 

このときの日本代表には、いまや応援解説で有名な松木安太郎、後に日本代表監督を務める「岡ちゃん」こと岡田武史もメンバーとして入っていました。

 

日本サッカー界の期待は実況にも現れていました。NHKの山本浩アナウンサーは「東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうにメキシコの青い空が続いている様な気がします」と、今でもサッカーファンの心に残る名セリフを残しています。

 

試合は、日本が押し気味に試合を進めていましたが、韓国はこの試合までの準備期間が日本よりも40日も長く、日本を完全に研究していました。前半30分と41分に韓国が得点して2-0とされます。試合前の期待は落胆に変わり、やはり韓国には敵わないのかという絶望感が漂ってきます。

 

もう少しでハーフタイムとなる前半43分に、日本はゴール前でフリーキックのチャンスを得ます。

 

木村和司が、カーブを掛けたフリーキックを右上ゴール隅に決めて、2-11点差に迫ります。応援に駆けつけていた大観衆はこのゴールに歓喜し、選手たちにも勇気を与えました。

 

伝説のフリーキックの動画です

後半になると1点を追いかける日本が攻勢を掛けますが、ヘディングシュートがバーを叩くなど、どうしても1点が奪えません。後半の最後は再び韓国がペースを握り、結局2-1のまま日本は敗れました。

 

その後に韓国で行われた第2戦で1-0で敗れ、日本はワールドカップ初出場を逃しました。結果的には、韓国に力の差を見せつけられることになりましたが、このときの木村のフリーキックは「伝説のフリーキック」と呼ばれるようになりました。

 

「伝説のフリーキック」と呼ばれるようになったのは、幾つかの理由があると考えています。この後のイタリア・ワールドカップ予選では一次予選で敗退してしまい、再びワールドカップが遠のいた存在になります。また、低迷していた当時の日本のレベルを遥かに超えたものだったこと、そして2点差を付けられ絶望的な気持ちになって苦しいときに目の覚めるような得点で勇気付けられたことです。

 

ここで韓国で敗れたことで、やはり日本もプロ化をしなければという機運が高まり、Jリーグ発足へと向かっていきます。

 

そして、この12年後にワールドカップ初出場をジョホールバルで決めることになります。このときの監督は、1985年の韓国戦のメンバーに選手として選ばれていた岡田武史監督でした。


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