和歌浦(わかうら)の
紀州東照宮
(きしゅうとうしょうぐう)です。
初代・紀州藩主である
徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が
父・
徳川家康(とくがわいえやす)を
祀ったといいます。
南海道(なんかいどう)の
総鎮護とされ
「関西の日光」とも
いわれたようです。
いまでは、
徳川家康を
東照大権現(とうしょうだいごんげん)
徳川頼宣を
南龍大神(なんりゅうおおかみ)
として
祀っているといいます。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
によって討ち払われた
和歌山市全域は
徳川家康の十男である
徳川頼宣によって
再興されたようです。
今回の
和歌浦でめぐった
すべての神社に、
徳川頼宣からはじまる
紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)が
関わっていました。
紀州東照宮のある
権現山(ごんげんやま)も
もともとは
和歌浦天満宮
(わかうらてんまんぐう)の
社地だったといいます。
名草山(なぐさやま)の
紀三井寺(きみいでら)
とあわせて
和歌浦の
急峻(きゅうしゅん)3社
というように
ここもまた
きつい階段が続いています。
侍坂(さむらいざか)といい
108段あるようですね。
極彩色の社殿や楼門には
圧倒されます。
本殿には
左甚五郎(ひだりじんごろう)の
彫刻や
狩野探幽(かのうたんゆう)の
壁画があるようです。
拝観料300円で
社殿をぐるりと
まわることができました。
また、500円で
神職による案内つきの
拝観も1時間に1度
行っているといいます。
ただし、
写真撮影はできなかった
ようにおもいます。
『
一に権現(ごんげん)
二に玉津島(たまつしま)
三に下り松(さがりまつ)
四に鹽竃(しおがま)
』
と謳われたほど
和歌浦で一番の名所
とされたようです。
さらには、
徳川家康の御霊を
なぐさめるために
徳川頼宣がはじめた
『和歌祭(わかまつり)』
もあるといいます。
かつては、
日本三大祭のひとつにも
数えられていたようです。
この祭りに、
ひとびとは
身分に関係なく参加できた
といいます。
和歌浦の
妹背山(いもせやま)ある
観海閣(かんかいかく)も、
徳川頼宣によってつくられ
ひとびとに開放されていた
といいますから、
徳川頼宣がいかに
ひとびとを大事にしていたかが
うかがえるようです。
そうやって、ひとびとに
親しまれたからでしょうか
和歌祭は
400年たったいまでも
つづいているようです。
ところで、
紀州東照宮にははじめ
東照大権現だけでなく
日吉山王権現
(ひよしさんのうごんげん)
摩陀羅神(またらじん)
も祀られていたといいます。
これには、
徳川家康の側近だった
天台宗(てんだいしゅう)の
僧・天海(てんかい)が
関わっているようです。
徳川家康の亡きあと
神号を『大権現』としたのも
山王神道をおさめた
天海だといいます。
紀州東照宮の
創祀の儀式も
天海がおこなったとされ
別当寺である
天曜寺(てんようじ)も
天海がひらいたそうです。
玉津島のひとつ
雲蓋山(うんがいさん)の
ふもとにある
雲蓋院(うんがいいん)は
その名残だといいます。
比叡山(ひえいざん)の
天台宗が祀る
山王権現といえば
日吉(ひよし)大社の
大山咋神(おおやまくい)
でしょう。
京都の鬼門守護として
猿が神使とされています。
摩陀羅神(またらじん)も
天台宗の神とされているようです。
太秦(うずまさ)の
広隆寺(こうりゅうじ)の
牛祭りでも知られていて、
一説には
秦河勝(はたのかわかつ)のこと
ともいうようです。
太秦も日吉大社も
秦(はた)氏の地と
いわれています。
また、
徳川家につながる
松平(まつだいら)家は
賀茂(かも)神社の
社家だったともいわれ
鴨(かも・賀茂)氏とも
つながるようです。
ですから、
江戸時代の
徳川家というのは
平安時代の
京都とおなじく
秦氏やカモ氏による
治世だったのかもしれませんね。
徳川家の家紋が
三葉葵(みつばあおい)なのも
カモ氏の
二葉葵(ふたばあおい)から
きているようです。
そもそも、
葵紋のモチーフは
「フタバアオイ」であって
2つ葉しか生えないといいます。
ですから、
3つ葉葵というのは
存在しない架空のものだそうです。
なぜ3つ葉なのか、
を考えることもまた
徳川家の謎を解くヒント
なのかもしれませんね
初代・
徳川家康から
2代目・
徳川家光(とくがわいえみつ)
とつづく本家は
7代目・
徳川家継(とくがわいえつぐ)
で途絶えたといいます。
そこで、ここ
紀州徳川家から
将軍となったのが
ドラマ『暴れん坊将軍』
でも知られる
8代目・
徳川吉宗(とくがわよしむね)
だったようです。
紀州藩主・
徳川頼宣の孫にあたる
といいます。
おもしろいのは、
徳川吉宗の幼少期です。
当時、この地には
高齢の父が産んだ子は
元気に育たないという
迷信があったらしく、
幼い吉宗は
和歌山城のなかにある
松の木のそばに
いったん捨てられて
家老であった
加納政直(かのうまさなお)が
拾って乳母をつけて
5歳まで養育した
というのです。
これは、
ホツマツタヱにある
ワカヒメの出生とおなじです。
親の厄年に生まれた
ワカヒメは川にながされ
いったん捨てられて
家臣であった
カナサキ(住吉神)が
拾って乳母をつけて
養育したといいます。
ワカヒメにゆかりのある
和歌(わか)の地で
おなじように
育った吉宗が将軍となり
治世をになったというのは
とてもとても
興味深いです
紀州東照宮のふもとにある
御手洗池(みたらしいけ)は、
端にあたり
かつては、ここまで
干潟がつづいていたといいます。
紀州東照宮の
禊の地ともされていたようですね。
天神山(てんじんやま)や
権現山(ごんげんやま)からは、
干潟にうかぶ美しい
玉津島の6山を
眺められたことでしょう。
紀伊国の和歌浦めぐり ~終~
↓よければクリック
↓お願いします。
☆和歌浦めぐり全記事リスト☆
紀伊国の和歌浦めぐり① ~水門吹上神社~
紀伊国の和歌浦めぐり② ~淡嶋神社~
紀伊国の和歌浦めぐり③ ~少彦名命~
紀伊国の和歌浦めぐり④ ~徳勒津宮~
紀伊国の和歌浦めぐり⑤ ~日前宮~
紀伊国の和歌浦めぐり⑥ ~竈山神社~
紀伊国の和歌浦めぐり⑦ ~伊太祁曾神社~
紀伊国の和歌浦めぐり⑧ ~玉津島神社~
紀伊国の和歌浦めぐり⑨ ~和歌の浦~
紀伊国の和歌浦めぐり⑩ ~和歌浦天満宮~
紀伊国の和歌浦めぐり⑪ ~紀州東照宮~