初代・
神武(じんむ)天皇の
兄・
五瀬命(ゐつせ)が眠るという
竈山(かまやま)神社です。
紀ノ川(きのかわ)の
河口ちかくにある
水門吹上(みなとふきあげ)神社は
兄・ヰツセが
「雄たけび」をあげて亡くなった
男之水門(おのみなと)といわれますが、
この、
兄・ヰツセを葬ったのが
『陵卽在紀國之竈山也』
日本書紀には、
『
進到于紀伊國竈山、
而五瀬命薨于軍、因葬竈山
』
ホツマツタヱには、
『
ゐつせかる
きのかまやまに
おくらしむ
』
とあり、すべて
「紀伊国の竈山」と
あるようです。
かつては、
東京ドーム2個分という
広大な社領があったといいます。
しかし、
戦国時代に紀伊国は
豊臣秀吉と敵対したため
竈山神社もまた
社殿・宝物・古文書はすべて燃え
社領も没収されたといいます。
江戸時代になってから
紀州徳川家により再建された
といいますが、
この地には
氏子も社領もなかったために
荒廃したといいます。
ですから、
『竈山』はながらく
所在不明だったようです。
江戸の終わりに
紀伊国続風土記(きいこくぞくふどき)が
編さんされると、
漢学者の
仁井田好古(にいだこうこ)や
本居大平(もとおりおおひら)の
弟子らによって
この地が
兄・ヰツセの亡くなった
本居大平は、国学者の
本居宣長(もとおりのりなが)の
養子だそうです。
本居宣長もまた
この地をたずねて
『
をたけびの
かみよのみこゑ
おもほへて
あらしはげしき
かまやまのまつ
』
と詠んだといいます。
想いや掛詞が
たくさんありますね。
明治時代には、
村社から
官幣中社となり
大正時代には、
官幣大社になったといいます。
村社から官幣大社まで
社格があがったのは
竈山神社だけだそうです。
昭和にはいると
国費によって
社殿がつくられたそうですが、
これは、当時の
世界情勢にもよるのでしょう。
いまでは
宮内庁によって、
竈山神社にある古墳が
兄・ヰツセの墓であると
治定されているといいます。
主祭神はもちろん
彦五瀬命(ヰツセ)です。
また、左脇殿には
ヰツセの兄弟である
稲飯命(いなゐ)
御毛入沼命(みけいり)
神日本磐余彦命(いわれひこ)
が祀られているといいます。
イワレヒコは
初代・神武天皇のことですね。
イナヰ・ミケイリもまた
熊野(くまの)上陸まえ、
荒波をしずめるため
海に飛び込んで
亡くなったといれています。
竈山神社の本殿が
南東を向いているのは、
弟たちがなくなった
熊野の上陸地を
眺めているのかもしれません。
右脇殿には
高倉下命(たかくらした)
可美眞手命(うましまち)
天日方竒日方命(くしみかたま)
天種子命(あめたねこ)
天富命(とみ)
道臣命(みちおみ)
大久米命(おおくめ)
椎根津彦命(しいねつひこ)
頭八咫烏命(やたがらす)
が祀られているといいます。
初代・神武天皇の
東征につかえた大臣ですね。
なかでも
ウマシマチは、
神武天皇と敵対していた
饒速日命(にぎはやひ)の
子だとされます。
ニギハヤヒともども
神武天皇に降伏した
といわれるようです。
左から、
合祀(ごうし)神社
結(ゆい)神社
子安(こやす)神社
のようです。
祭神は
諸説あるようですね。
とくに、合祀神社は
近隣の神社が
合祀されているようで
さまざまなかたが
祀れているようです。
ここからは
本殿も垣間みえました。
また、
本殿の左には
境内社の
青葉神社もありました。
こちらも、祭神は
よくわからないようです。
ほんとうに
古文書の焼失が
くやまれますね。
竈山神社の
本殿のうしろには
竈山墓ともいわれる
ヰツセの陵があるようです。
境内をいちどでて
東から橋をわたって
回り込むといいますが、
今回は
行くことができませんでした。
ホツマツタヱによれば、
ヰツセは父帝・
ウガヤフキアワセズと
内侍(うちめ)の
ヤセ姫とのあいだに
産まれたといいます。
しかしながら、
ヤセ姫は
ヰツセを産んですぐに
亡くなってしまったようです。
そこで、
乳母をさがしたところ
山背(やましろ)の
玉依姫(たまよりひめ)が
みいだされといいます。
ウガヤフキアワセズの母・
豊玉姫(とよたまひめ)の
姪にあたるかたです。
玉依姫は、このとき
神の子をはらんだとして
森に隠れ住んでいたといいます。
そこで
ウガヤフキアワセズは
乳母として、
玉依姫を
迎え入れたようです。
このときの連れ子が
ミケイリだといいます。
しかしやがて、
ウガヤフキアワセズは
玉依姫とのあいだにも
子をもうけたといい、
それが、
イナヰとイワレヒコ
だといいます。
はじめはどうやら、
兄・ヰツセが世を継ぐはずだった
ようですね。
ところで、
ホツマツタヱによると
ヰツセを葬ったのち
『
なぐさのとべが
こばむゆえ
つみしてさのへ
』
とあり、
名草戸畔(なぐさとべ)という
女性の族長が
敵対したために
これを討ってから
サノへいった
といいます。
竈山の南には
名草山(なぐさやま)がありますし
かつてはこのあたりを
名草郡(なぐさぐん)と
よんでいたようです。
名草をおさめていた
女族長・ナグサトベを
討ったのちに、
紀伊国造となる
天道根命(あめのみちね)に
この地を託したのでしょうか?
日前宮(にちぜんぐう)に
中言(なかごと)神社として
祀られていた
名草姫命(なぐさひめ)も
ナグサトベのこと
ともいうようです。
また、
ナグサトベは討たれたのち
ばらばらにされて
埋められたともいいます。
宇賀部(うがべ)神社は
「おこべさん」ともいい
頭を
杉尾(すぎお)神社は
「おはらさん」ともいい
胴を
千種(ちぐさ)神社は
「あしがみさん」ともいい
足を
それぞれ埋葬した
ともいわれるようです。
これは、
土地の守り神とした
というような意味も
あるといいますが、
さて、どうでしょう。
水門吹上神社から
上陸したといいますが、
かつて
水門吹上神社は
入り江であり、
紀ノ川は南下して
和歌浦(わかのうら)に
そそいでいたといいます。
竈山へゆくには
和歌浦からはいって
和田川(わだがわ)をのぼるのが
よいでしょうが、
そこはもう
ナグサトベの地
だったのでしょう。
記述としては、
兄・ヰツセを葬ったのちに
ナグサトベを討った
とあります。
敵地に
兄を葬るという経緯は
想像するしかありませんが、
そこにはいいったい
どのような交渉があり
どのような対立があったのでしょう。
紀ノ川は
大和へもつながる
水の道でもあります。
重要なこの地でいったい
どんな歴史が
繰り広げられたのでしょうか?
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紀伊国の和歌浦めぐり② ~淡嶋神社~
紀伊国の和歌浦めぐり③ ~少彦名命~
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