住吉(すみよし)大社には
住吉大神が祀られている
といいます。
ホツマツタヱによれば
スミヨロシ神は
スミヱの翁ともいわれる
カナサキ(金拆命)さま
といわれているようです。
そこで今回は、
カナサキさまが
どんな方だったのか
まとめてみます。
全40章におよぶ
壮大な叙事詩の
ホツマツタヱですが、
カナサキさまはその
第1章(1アヤ)の
冒頭から登場します。
『
それわかは
わかひめのかみ
すてられて
ひろたとそだつ
かなさきの
つまのちをゑて
』
「
和歌のはじまりは、
ワカヒメさまです。
捨てられたところを
カナサキさまに拾われて
妻の乳で育ちました。
」
ワカヒメさま
(斎名・ヒルコ)は
イサナギ・イサナミの
第一子ですが、
両親がともに
厄年のときに出産したため
親の『災厄』が
娘・ヒルコにおよばないよう、
イワクス舟
(汚穢をくじく舟)に乗せて
川に流したといいます。
娘と離れ離れに
暮らさなければならない
イサナギ・イサナミは、
臣下のカナサキに
養育を任せたようです
海人族の祖である
シマツヒコからかぞえて
七代孫のカナサキは、
このときすでに
大阪湾(河内湾)を
治めていたのかもしれません。
イサナギ・イサナミの暮らす
多賀(たが)大社から
琵琶湖(びわこ)
瀬田川(せたがわ)
宇治川(うじがわ)
淀川(よどがわ)をへて
大阪湾まで船で
流れてきたのでしょう。
カナサキさまは、
当時は浜辺であった
西宮(にしのみや)神社境内の
ヒルコさまをひろいあげ、
育てたといいます。
カナサキさまは
廣田の地で、
ワカヒメさまに
さまざなまな教養を
ほどこしたようです。
たとえば、
当時の『あいうえお』であり
イサナギ・イサナミが作った
『あわうた』も
このとき教えたようです。
『
あかはなま
いきひにみうく
ふぬむえけ
へねめおこほの
もとろそよ
をてれせゑつる
すゆんちり
しゐたらさやわ
』
これが
『あわうた』です。
並べかえると、
「
あかはなま
いきひにみ
うくふぬむ
えけへねめ
おこほのも
とろそよを
てれせゑ
つるすゆん
ちりしゐ
たらさやわ
」
となり、
前半は上から下に
後半は下から上に読むと
「あいうえお」と
ほぼおなじになっています。
カナサキさまはまず、
ことばの基礎を
教えたようですね。
これは
とても大事なことで
日本の言語から生まれた
『和歌』というものが、
叙事詩の冒頭に
描かれているというのは
この国のおおもとは
言語(ことば)である、
言葉に神がやどる
ともいえるようです。
つづいて、
カナサキさまは
『東西南北』について
教えたとありました。
「
昇る陽の
日頭(ひがしら)がみえるから
『東(ひがし)』
昇った太陽は
みんなが見るから
『南(みなみ)』
沈む太陽は
煮え鎮むようだから
『西(にし)』
」
このように
豊かな言葉をもって
語られたようです。
ホツマツタヱでは
東西南北は
『
東(き)
西(つ)
南(さ)
北(ね)
』
ともいい、
春夏秋冬の季節にも
対応しているといいます。
春は
きざしの『き』
夏は
さかえの『さ』
秋は
つきるの『つ』
冬は
ねむるの『ね』
から来ているといいます。
そして、ひとは、
夜には寝静まって
朝に起き
また夜に寝ることから、
『
寝より来た(キタ)りて
寝に帰る
』
となり、『ね』は
『北(きた)』というのだそうです。
さらにはこの
『東西南北』に
中央の
『
央(を)
』
をくわえて
『きつをさね』
ともいい、
方位だけでなく
『五臓』にも
対応しているといいます。
『きつをさね』は
子音も母音も
べつべつの音であるので、
重要な意味があったことでしょう。
東西と南北で織りなす
経(たていと)と
緯(よこいと)で
経緯(イキサツ)と読むのも
ホツマツタヱから
来ているのかもしれません。
ですからもちろん
機織りにも
通じているのでしょう。
『言葉』というものを
ひとつひとつ丁寧に
教えられたヒルコさまは
やがて、
ワカヒメと呼ばれるほどの
和歌の名手に育ってゆきます。
その力は、
和歌をうたうだけで
稲についた
イナゴの群れを祓った
といいます。
また、ワカヒメさまは
一目惚れした
オモイカネさまに
思いを届けるため、
上から読んでも
下から読んでもおなじになる
『まわり歌』を捧げたといいます。
これは
返し歌をできない歌であり
強い思いを叶えたいときに
詠われるのだといいます。
この技法を教えたのも
カナサキさまだといいます。
荒れ海に遭遇し、
航海に難渋していた
カナサキさまは
『回り歌』をささげて
海を鎮めたといいます。
その歌は現在でも
七福神(しちふくじん)の
宝船の歌として
残っているようです。
『
なかきよの
とおのねふりの
みなめさめ
なみのりふねの
おとのよきかな
』
「
長き夜の
遠の眠りの
みな目ざめ
波乗り船の
音のよきかな
」
わたくしNAVI彦が、
ふだんお世話になっている
言語造形家の
諏訪千晴(すわちはる)さんが
嵐の夜にこの歌を
うたわれた動画がありますので、
よかったらご覧になられてください。
このように
歌や言葉には
不思議な力が宿ると
古代から
信じられていたようです。
いわれているようです。
こうして歌を教えた
カナサキさまが仲人となって、
ワカヒメさまと
オモイカネさまは結ばれ、
滋賀県のヤスカワ宮で
暮らしはじめたといいます。
養父として
ワカヒメさまを育てた
カナサキさまですが、
カナサキさまにも
子どもがいたようです。
なかでも娘は、
ハヤアキツ姫アキコといい
男神・天照大神の
十二人の妻のひとりに
選ばれていたようです。
天照大神をはじめ
日神のかたがたは、
世継ぎを絶やさないよう、
名家の娘をおおく
もらっていたようです。
天照大神とアキコのあいだには、
天津彦根命(あまつひこね)が
産まれたとありました。
天津彦根命は
記紀にもホツマにも
あまり記述のない方ですが、
三重県の
多度(たど)大社で
祀られていたり、
三上山(みかみやま)周辺に
いわれがあったりと、
鍛冶製鉄に
関わりがあるようです。
ここからおそらく、
息長氏へと受け継がれ
その一族の娘である
息長帯姫(おきながたらしひめ)=
神功(じんぐう)皇后が
住吉大神を祀ったとすれば
とても興味深い
歴史スぺクタクルですね
イサナギ・イサナミの世から
朝廷に仕えていた
カナサキさまですが、
このカナサキさまが
住吉明神とされる一文が
ホツマツタヱにあります。
『
つくしあわきの
みそきには
なかかわにうむ
そこつつを
なかつつを
うわつつを
これかなさきに
まつらしむ
』
イサナミの崩御により
黄泉の国まで追いかけた
イサナギは、
すっかり気が滅入って
帰ってきたといいます。
熊野で禊を繰り返し
ようやく気を取り戻してきたころには、
国がやや荒れていたようです。
そこでイサナギは
ふたたび国を治めるべく
各地をめぐったといいます。
筑紫のアワキの宮では
底筒男・中筒男・表筒男を
任命して、
カナサキさまに
統治(政)させたといいます。
福岡の
まさにその地であり、
そばを流れる那珂川は
住吉3神が産まれた地
とされているようです。
カナサキさまは、
イサナギの世から
天照大神の世にうつっても、
『ゑをやとみ(大老臣)』として
仕えたといいます。
その存在は、
天照大神の祖父
豊受大神(トヨケ)に次いで
大きいものだったのでしょう。
そうして
カナサキが大老臣として
世を治めているときに
シラヒト・コクミの乱が
起こります。
大祓(おおはらい)祝詞にある
『白人胡久美(しろひとこくみ)』
のことであり、
『
己が母犯せる罪、
己が子犯せる罪、
母と子と犯せる罪、
子と母を犯せる罪
畜(けもの)犯せる罪
』
とつづくような
罪を犯した罪人であり
地方を治めていた
厳しい刑罰を与えます。
しかし、天照大神の
十二人の妻のうち
モチコとハヤコという姉妹は、
天照の弟・
ソサノヲを懐柔して
国を盗る計画をたてていて、
その駒とするべく
裏から手をまわして
シタヒト・コクミに
特赦を与えたのでした。
この事件が、
やがておおきく膨らんでゆき
『ハタレ』という
巨大な反乱勢力に
なっていったといいます。
ハタレとは、
動物の怨霊に
憑かれた人といわれ、
錦蛇(おろち)に憑かれて
嫉妬心にかられた
『シムミチ』
鵺(ぬえ)に憑かれて
功名心にかられた
『ハルナハハミチ』
蛟(みずち)に憑かれて
強欲にかられた
『イソラミチ』
狐(きつね)に憑かれて
人を欺く
『キクミチ』
猿(さる)に憑かれた
卑屈になった
『イツナミチ』
天狗(てんぐ)に憑かれて
高慢になった
『アメヱノミチ』
の6ハタレがいたといいます。
カナサキさまは、
この6ハタレ討伐の
総大将となり
各地に軍を
派遣したようです。
また
カナサキさま自身も、
『シムミチ』の討伐に
向かったといいます。
シムミチは、
山川を氾濫させたり
火を吹いたりする
妖術を使ったといいます。
そこで
カナサキさまは、
天照大神よりいただいた
カダスス(葛煤)と
ワラビナワ(蕨縄)という
呪具をもちいて
敵の妖術を打ち破り、
見事、
3千人ものシミムチを
生け捕りにしたといいます。
このように、
ほかのハタレたちも
みな討伐しおえると、
天照大神は
戦にかかわった将校に
報奨をあたえたといいます。
カナサキさまは
ハタレ討伐の功労により
『スミヨロシ』神の名と
筑紫の土地をたまわった
といいます。
ここ住吉大社の地が
住吉といわれるのも、
カナサキさまが
ハタレを討伐して
国を治めた功労によると思えば、
現在の威光も
うなずけるような気がします。
さてもうひとつ、
船の神さまについては
このような記述があります。
『
ふねはいにしゑ
しまつひこ
くちきにのれる
うのとりの
あつくみかわゆく
いかたのり
さおさしおぼえ
ふねとなす
このおきつひこ
かもおみて
かいをつくれは
まこのしか
ほわになすなよ
かなさきは
おかめおつくる
そのまこの
はてかみのこの
とよたまと
みつはめとふね
つくるかみ
むつふなたまぞ
』
鵜の鳥が
枯れ木に乗って
安曇川(あどがわ)を
流れてゆくのをみて、
海の一族の祖である
シマツヒコは、
竿を指して川をくだる
筏(いかだ)をつくったといいます。
また、
子のオキツヒコは
鴨が水かきのついた足で
泳ぐのをみて、
櫂でこぐ
カモ舟をつくったようです。
さらに、
孫のシガは
風をうける帆船の
ワニ舟をつくり、
7代孫のカナサキは
ウミガメから
大型の櫂こぎ舟である
カメ舟をつくったといいます。
そこに、
カナサキの孫の
ハテカミと
ハテカミの娘の
トヨタマ姫をあわせて
六船霊(むつふなたま)
というそうです。
カナサキさんは
亀舟という巨大舟を考案した
船の神さまでもあるようです。
そして孫である
ハテツミが
鹿児島にいたことからも、
晩年は
九州を統治して暮らしていた
のではないでしょうか?
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☆住吉大社全記事リスト☆
摂津国の住吉大社① ~スミヨロシ~
摂津国の住吉大社② ~カナサキ~
摂津国の住吉大社③ ~六船霊~
摂津国の住吉大社④ ~オリオン~
摂津国の住吉大社⑤ ~初辰まいり1・種貸社~
摂津国の住吉大社⑥ ~初辰まいり2~
摂津国の住吉大社⑦ ~五所御前~
摂津国の住吉大社⑧ ~津守氏~
摂津国の住吉大社⑨ ~まとめ~
摂津国の住吉大社⑩ ~生根神社と金拆神社~