【書紀抄録】五十瓊敷命と太刀一千口




石上神宮を拝し…
境内社 出雲建雄神社(記事改定作業中)を拝し…
夜都岐神社を拝し…


そういえばコロナ禍で
長らく熱田神宮にお参りできてないな…

久しぶりに都祁の
葛神社雄神神社を拝し…
(都祁に向かったことはまだ未公開ですが)


出雲建雄命三昧やな…と。
布都御魂大神三昧やな…と。

つい先日
「忍坂(忍阪)街道」を歩いたことやし…。
(こちらも未公開ですが)


以上からピン!ときたのが「太刀一千口」。
どこかの時点でちゃんと記事にしなければ…とずっと思っていたのが、ちょうどいい機会。


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【大意】
垂仁天皇即位三十九年冬十月、五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮に居て、剣一千口を作りました。因ってその剣の名を川上部と言います。亦たの名を裸伴(あかはだがとも)。蔵めた(おさめた)のは石上神宮です。この後に垂仁天皇は五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝の俾主(管理者)としました。

一伝(別伝)によると、五十瓊敷皇子は茅渟の菟砥河上に居て、鍛(かぬち)名は河上を喚して(めして)太刀一千口を作らせました。この時、楯部(タテヌイベ)・倭文部(シトリベ)・神弓削部(カムユゲベ)・神矢作部(カムヤハギベ)・大穴磯部(オオアナシベ)・泊橿(ハツカシベ)・玉作部・神刑部(カムオサカベ)・日置部・太刀佩部(タチハカベ)の併せて十の品部(とものみやつこ)を五十瓊敷命に与えました。
その一千口の太刀は「忍阪邑(おっさかのへき)」に蔵められました。然る後に「忍阪」から移して石上神宮に蔵められました。
この時に神に教えを乞うと、「春日臣族の名は市河に治めさせなさい」と。因って市河に命じて治めさせました。これが今の物部首(モノノベノオビト)の祖です。


【補足】
◎「本文」も「一伝」も五十瓊敷命が太刀一千口を作ったのは同じ。またそれが石上神宮に蔵められたというのも同じ。
「本文」が五十瓊敷命に神宝の管理を命じたのに対し、「一伝」では春日臣市河という物部首の祖に治めさせたと記されます。

◎もう一点は石上神宮に蔵められる前に、「一伝」では「忍阪」を経由しています。
奈良県の北半分に広がる大和盆地。石上神宮は東の丘陵地に鎮座、「忍阪」は南東丘陵地。距離にして10kmほど離れているでしょうか。
「忍阪(忍坂)」に焦点を当てた記事を2~3日後に上げる予定をしています。

◎五十瓊敷命は垂仁天皇の第一皇子。こちらは別に記事を上げます。

◎「茅渟の菟砥川上宮」とは一体どこなのか?「茅渟」は和泉国とされます。大阪府南西部の泉南地区。神武東征神話の中で登場する「茅渟の海」からの推測。比定地ははっきりしないものの、以下の地が関連するのではないかと。

*記には「鳥取河上宮」で作ったと記されます。日根郡(現在の阪南市)に波太神社(式内社 波田神社の比定社)に隣接して鳥取神社が鎮座します。波太神社は鍛冶製鉄氏族である鳥取連が奉斎した社。鳥取神社は周辺8社が合祀されて明治末期に創建に至った社ですが、ご祭神の中に五十瓊敷命が見えます。
阪南市には「菟砥川」があり、おそらくはこの流域のどこかで造られたのであろうと思われます。鳥取神社の合祀前の五十瓊敷命を祀っていたという玉田神社はこの流域にあったようです。最有力な候補地かと思います。

*和歌山県との境界に近い、南海本線淡輪駅近くの淡輪ニサンザイ古墳という巨大古墳があり、被葬者は五十瓊敷命ではないかとされます(未拝)。
*関空より少し北の貝塚市には「二色(にしき)の浜」というのがあり、五十瓊敷命(イニシキノミコト)と関連する可能性があります。
*和泉市には五十瓊敷命を祀る男乃宇刀神社が鎮座します。

◎今回取り上げた前の前の条では、五十瓊敷命は河内国に派遣され、「高石池」と「茅渟池」を造らされています。さらに大和国の「狭城池」と「迹見池」を造らされています。
「茅渟池」とあることから、個人的には河内国の可能性もあると考えています。ただし河内国の中の具体的な場所は不明。

◎春日臣は和珥氏系。天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)の7世孫の米持搗大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)の子に市川臣というのがおり、こちらが「市河」と記される者と思われます。

◎物部首と物部氏との関連は不明。どちらも物部を名乗っているのが謎。石上神宮は物部氏の氏神とされていますが、沿革を辿ると社家は市川臣や布留氏(いずれも和珥氏系)。物部氏は武器の管理を行っているのみ(物部十千根命が任務にあたる)。
この謎を解き明かすのは非常に困難であり、また主題からは外れるため、ここでは深く掘り下げません。

◎「一伝」にある「鍛(かぬち)名は河上を喚して…」というのがよく分からないところ。
「鍛」の一字で「鍛冶をする人」と解し、その名は河上という者を喚して…ということなのでしょうか。

◎問題はなぜ太刀を一千口も作らねばならなかったのかということ。

大和王権の基盤がまだ脆弱であり、攻撃力を早急にかつ格段に向上させねばならなかったというのは確実。

ところが手元(垂仁天皇 纏向玉城宮)には置いておかず、少々離れた「布留」の地に蔵めたのはなぜなのか?しかも「神宝」として。

これは天照大神の御杖代として、鎮まるに相応しい地を求めて倭姫命が諸国を巡幸したのと、目的は似ているのではないかと考えるのです。

天照大神の御杖代、つまりは三種神器の一である「八咫鏡」、これを所持することこそが王権たる証であり、それは「レガリア」であると。
ところが大和の纏向で営んだ宮は、確かに神聖な地であり環境は申し分ないが、要害の地ではなく強大な敵軍から総攻撃を仕掛けられた際にはあまりに脆い。どこかへ隠し通さねばなるまいかと。

だから「八咫鏡」を鎮めたのは、奥深い山中の地である滝原宮であると考えています。
*皇大神宮は天武天皇の御代に遷座創建、それまでは滝原宮にて奉斎されていたと考えています。

同様に三種神器の一である「布都御魂剣」に附随する神宝「太刀一千口」も、「忍阪」の山中へ一度隠したと見せかけ石上神宮へ移したのではないかと。

その石上神宮の地もそもそもが偏狭の丘陵地。しかも「布都御魂剣」が仮に「大国見山」山頂の「八箇石」、或いは尾根続きの「布留山」の「八つ岩」周辺に隠されていたのかも。





(男乃宇刀神社 ご本殿)



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