瀧原宮・瀧原竝宮
(たきはらのみや・たきはらならびのみや)


伊勢国度会郡
三重県度会郡大紀町滝原872
(P有、一の鳥居前は道の駅「奥伊勢 木つつき館」)

■延喜式神名帳
瀧原宮 大 月次新嘗 の比定社

[川島神社(長由介神社同座)] 瀧原宮所管社(3社中第3位)


■祭神
[瀧原宮] 天照坐皇大御神御魂(アマテラシマススメオオカミノミタマ)
[瀧原竝宮] 天照坐皇大御神御魂
[若宮神社] 若宮神
[長由介神社] 長由介神(ナガユケノカミ)
[川島神社] 川島神


皇大神宮の別宮とも遥宮(とおのみや)とも称される社。
◎垂仁天皇の御代、倭姫命が天照大神の御魂を御杖代として各地を転々した後、「磯宮」に降臨します。これは「五十鈴川」の川上にたてた斎宮のこと。おそらく現在の外宮(豊受大神宮)の地かと思われます。つまり在地の度会氏が奉斎していた磯宮という宮があったところに、斎宮をたてて一旦天照大神の御魂を鎮めたと考えられます。
◎さらにそこを発ち天照大神の鎮まる地を探しました。そして流れの速い「宮川」を渡れず困惑していたところに真名胡神が現れ、倭姫命一行を助けます。その真名胡神の案内で当地を一望できる祝詞山に登り、「大河之瀧原之国」と紹介されます。倭姫命はここに天照大神を鎮めることになり、それが当社、瀧原宮であるとされます。
◎倭姫命は真名胡神へのお礼として御瀬社を造営、それが現在の多岐原神社であるとされます。真名胡神が倭姫命を助けたとされる伝承地が三瀬の渡し。「祝詞山」というのは、その山容から多岐原神社北東方向の山のように見受けられます(下部写真有り)。
◎創建時期について「太神宮諸雑事記」の七七一年の条に、651年の神嘗祭に瀧原宮祭司使が洪水の難により遙拝したとあり、これより以前にあったとされる説があります。ところがこの時期に皇大神宮そのものがまだ成立さえしていないとも思われ、やはり創建時期は天武朝の後ではないかと思います。
◎瀧原宮には天照大神の和魂が、瀧原竝宮には天照大神の荒魂が祀られています。「倭姫命世記」には水戸神とし、瀧原宮が速秋津日子神、瀧原竝宮が速秋津姫神としています。
若宮神社についてはその御子神である天水分神ではないかという説も。長由介神社については食饌神、つまり豊受大神という説も。川島神社についてはまったく不明。
◎上記までは一般に有力とされている説。当社についてはさまざまな解釈がなされており、定説はありません。皇大神宮、豊受大神宮に続く第三位の格付け。44万㎡というとてつもなく広大な社地。単なる元伊勢というだけでは片付けられない社です。
◎大神宮成立に関しての不朽の書とも言える筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」においては、皇大神宮の旧社地であるとの見方をしています。「続日本紀」にある文武天皇二年 多気大神宮寺を度会郡に遷す」とあるのを捉えてのもの。まず当社は延喜式神名帳では度会郡となっているものの、それ以前は多気郡でした。皇大神宮への遷座に伴い度会郡に編入したものと考えています。また「多気大神宮寺」は「多気大神宮」に「寺」を作為的に加えたとしています。「大神宮」という呼び方がなされたのが当社であるというもの。
◎皇大神宮が重要な場所に滝祭宮を営み、またすぐ側で御手洗場を営んでいるのはその名残であるとも。今のところこの説がもっともしっくりとくるように思います。

※写真は過去複数回に渡る参拝時のものが混在しています。


当社にはなるべく早朝参拝をすることにしています。この日も朝の6時になるのを待って参拝開始。




御手洗場。こちらは皇大神宮と同様のもの。







瀧原宮

瀧原竝宮

若宮神社

長由介神社(川島神社同座)




式年遷宮の際に「心御柱」を建てる祠。

上の写真を拡大。

神域を流れる「能登川」。

「祝詞山」ではないかと思われる山。