【読み下し文】
五月丙寅朔癸酉 軍茅淳山城水門に至る(亦の名を山井水門 茅淳此れ智怒と云う) 時 五瀬命矢の瘡甚だ痛む 撫劒に及び而して雄誥之曰く(撫劒 此れ都盧耆能多伽彌屠利辭魔廔と云う) 慨哉 大丈夫慨哉 此れ虜手に於いて傷を被り宇黎多棄伽夜 將報いず而して死耶 時の人因りて其の處を號づけて 曰く雄水門 進み行きて紀伊国竈山に到る 而して軍行きて五瀬命薨じる 因りて竈山に葬る

【大意】
(長髄彦軍との孔舎衛坂合戦で流れ矢に当たり重症を負い、皇軍は進軍を断念し南下します)五月に「茅淳(ちぬ)」の「山城水門(別名 山井水門)」に来ました。その時、五瀬命が負った矢の傷は大いに傷み、「撫劒(つるぎのたかみとりしばり=束の柄を握っての意味か)」雄叫びを上げて言うには「ああ、大丈夫かああ!」「虜手(敵のことか)に傷を負わされ宇黎多棄伽夜(意味不明)」、「将報いず(何の戦果も上げられずの意味か)死んでしまうのか!」当時の人はその地を「雄水門(おのみなと)」と名付けました。皇軍は紀伊国の竈山に進みますが、五瀬命は薨去。竈山に葬りました。

【補足】
・「茅淳(ちぬ)」の「山城水門(別名 山井水門)」については、どこか分かっていません。堺から泉南の辺りのどこかでしょうか。
・「雄水門」については候補地が二箇所。和泉国の男神社と紀伊国の水門吹上神社。文脈から判断するのであれば、「雄水門」で雄叫びを上げた後に紀伊国竈山へ進んだとしているため、紀伊国ではなく和泉国の男神社とするべきでしょうか。
ところが記には「紀伊国雄之水門」とあります。つまり記と紀では異なる記述をしていることに。
・葬られた「竈山」は竈山神社で間違いないかと思われます。境内には墳墓もあり手厚く祀られています。


(和泉国 男神社)
(紀伊国 水門吹上神社境内の「神武天皇聖蹟男水門顕彰碑」)