(山城国葛野郡 月読神社)





【書紀抄録】
日神と月神、対馬&壱岐と十市郡・葛野郡




「日本書紀」に「日神」と「月神」についての興味深い記事があり、それを取り上げます。



紀の顕宗天皇三年(487年)の記述


春二月 阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)が勅命を受けて任那(みまな)に赴いた。この時、月神が人に著りて(依り憑いて)わが祖高皇産霊は天地を造りし功績を持つ、民地を月神に祀れ、吾の言うとおりに従えば福慶があろう」と言ったので、事代は大和に戻りこのことを報告。
そこで山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に月神を祀り、壱岐縣主(イキノアガタヌシ)の祖 押見宿禰(オシミノスクネ)に祭祀を行わせた。

夏四月 日神が人に著りて(依り憑いて)、事代に「磐余(いわれ)の田をわが祖高皇産霊に献上せよ」と言った。事代はすぐにこれを報告。神託のとおりに磐余の田を十四町献上、対馬下縣直(ツシマノシモツアガタノアタイ)に日神を祀らせた。

以上が記述の概要。

「日神」と「月神」が阿閇臣事代を介して大和国と山城国に祀らせるように神託を授けます。そして「日神」と「月神」の頂点にいるのが高皇産霊神。「日神」と「月神」が対比された説話です。

◎「月神」 壱岐 → 月読神社(未参拝)
◎「月神」 山城国の歌荒樔田 → 月読神社

◎「日神」 対馬 → 阿麻氐留神社(未参拝)
◎「日神」 大和国の磐余 → 十市郡の目原坐高御魂神社(比定社は天満神社)。

以上のように考えられています。

なお阿麻氐留神社のご祭神は天日神命(アメノヒミタマノミコト)とされ、天火明神と同神であると考えられています。

阿閇臣事代の「事代」ですが、「事」は「言葉」であり「代」は「あることをするために要するもの」。平易にすると、ある言葉を伝えるための役割を負う者といったところでしょうか。
おそらく神懸かりして神託を賜る巫女がいますが憑依状態であるため、通訳的な役割を担ったのが阿閇臣事代ではなかったでしょうか。
ちなみに阿閇氏は後に安倍氏となり、祖神は大彦命とされる氏族。

少々乱暴な言い方をするなら、阿閇臣事代はいかようにも都合良く通訳を行うことができたとも言えそうです。

ではなぜこの時期にこういう事が起こったのか。あるいは、なぜこういうストーリーをこしらえたのか。

キーとなるのはやはり高皇産霊神でしょうか。

記紀が記す皇祖神は天照大神、司令塔は高皇産霊神。ところが天照大神の成立過程を考えると、当初は高皇産霊神のみが皇祖神であったのだろうと思うのです。
高皇産霊神は万物生成の神とされていますが、日神も月神も生み出した頂点の神として当時は崇められていたのだろうと考えています。

ところで壱岐の月神と対馬の日神、これらは当地で当初から祀られていた神なのでしょうか。あまりにきれいに棲み分けされ過ぎています。壱岐と対馬で元々太陽や月、山や木など自然神を祀っていたところに、朝廷の思惑で日と月がそれぞれに割り当てられ奉戴させられたのでは、と考えてしまうのです。
そうすると万物生成神のような、根源神のような、つまり高皇産霊神のような神が祀らていたのではと。

では、なぜこの時期に?という疑問が出てきます。

高皇産霊神の神名が突如として登場します。記述をずっと遡り天地創造、そして天孫降臨のシーンで大活躍の神が、忘れかけた頃に突如として再登場するのです。

これには壱岐や対馬からの民族移動があったとされ、それに関わるのではないかと。その時期は飛鳥朝の頃。この頃に高皇産霊神への崇敬度が高まったのではないかとみています。

「藤原京」の東部に位置する「天香久山」は高天原に見立てられ、山頂の國常立神社に始まり、中腹に伊弉諾神社・伊弉冊神社、麓に天岩戸神社が鎮座します。また北部に位置する「耳成山」には、山頂の耳成山口神社にて高御産霊神が祀られています。


この時期といえば「帝紀・旧辞」が編纂されており、それらは高皇産霊神を皇祖神として構築された史書だったのでは?
そして本当はその時期に飛鳥で「神盟探湯(くがたち)」(→ 甘樫坐神社の記事参照)が行われ、乱れた氏姓がただされたのではないでしょうか。

高皇産霊神は高句麗系としてみられることも多い神。これは高句麗への対抗心の現れのような気配がみられます。あたかも実在したように見せかけたのでは。
おそらくは各地で祀られる高木神的な神と習合されたので、実在したように感じるのでしょうか。或いは本当に実在したのかもしれません。

さらに阿閇臣事代が任那に赴任され、その際に…ということになっています。これはそれぞれの創祀をこの時に当てはめたのでは、と考えています。


(式内大社 大和国十市郡「目原坐高御魂神社」の比定社 天満神社)