甘樫坐神社
(あまかしにますじんじゃ)


大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村大字豊浦字寺内626
(P無し、「甘樫丘」有料Pや「あすか夢の楽市(明日香村埋蔵文化財展示室を併設)」から徒歩10分足らず)

■延喜式神名帳
甘樫坐神社 四座 並大 月次相嘗新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
推古天皇
[相殿] 八幡宮 春日大明神 天照皇大神 八咫烏神 住吉大明神 熊野権現


古代に「盟神探湯(くがたち)」が行われた神聖な地とされる「甘樫丘」。言葉の偽りを明らかにして正す場所とされる「辞禍戸岬(ことのまがへのさき)」(*「岬」は「石」扁に「甲」)。それがおそらく北西麓に鎮座する当社境内で行われたと考えられています。
◎紀には2ヵ所記されており、一つは武内宿禰が弟に讒言されたときのもの、もう一つは允恭記にある氏姓を只したもの。
◎応神天皇九年の条。武内宿禰は百姓を観察するために筑紫へ派遣されます。弟の甘美内宿禰は兄を廃そうと企み、兄が天下を取ろうとしていると天皇に讒言。天皇は武内宿禰を殺すための使いを送ります。この時、武内宿禰に容姿がそっくりだという真根子(壱岐直の祖)が身代わりに。武内宿禰は天皇の元へ向かい弁明。「盟神探湯」にて、「神祇に請いて探湯を行うように言いつけ」ました。そして武内宿禰が勝ちました。
◎允恭天皇即位四年の条。即位して四年経つが国をしっかり統治できていないのは、氏姓の混乱によるものであると天皇は詔します。そこで「沐浴斎戒し盟神探湯を行い氏姓をはっきりとさせるように」と命じました。そして「味橿丘(甘樫丘)」の「辞禍戸岬(ことのまがへのさき)」にて「盟神探湯」が行われ、間違った氏姓がはっきりとさせられました。
◎「盟神探湯」とは、━━古代における証拠方法。釜の中に入れた泥を煮沸してその中に小石を置き、被疑者または訴訟当事者にこれを取り出させて、手がただれるかただれないかによって罪の有無や主張の真否を判断する方法。
古代は神の支配する社会であるから、罪の有無、当事者の主張の真否を神に証言させようとしたのであり、神は有罪または偽証した者の手をただれさせると考えたのである━━(「日本大百貨全書」より)
上記の允恭天皇四年の条に、その具体的な方法が記されています。古代の裁判の一つの方法と解していいのかと考えます。
◎当社は「五郡神社記」(文安三年、1446年)という書に、八十禍津日命・大禍津日命・神直毘命・大直毘命を祀り、創祀は武内宿禰によると記されています。これは紀の武内宿禰の「盟神探湯」の記述と一致するもの。ご祭神も上記の通りであり神名帳の四座と一致、現在のご祭神は江戸時代に塗り替えられたものとか。
「日本三大実録」には神階授与が貞観元年(859年)に見られ、創建はそれ以前ということに。
◎その「五郡神社記」には当社が「湯起請神(ゆぎしょうのかみ)」として記され、また復活しているとのこと。戦後には神事として行われているようです。
◎境内には「立石」というのがあり、現在もこの巨石の前で「盟神探湯」神事が行われています。この立石がどこからどうきたものなのかは資料が無く不明。

*写真は2018年2月と2022年4月撮影のものとが混在しています。