☆ 甘樫丘
(あまかしのおか)
大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村豊浦
(P有、ただし「甘樫丘展望台」からはかなり離れている)
飛鳥時代にさまざまな形で舞台となり、歴史を彩った「甘樫丘」。
小学生の時に2回登っていますが、2017年にずいぶんと久しぶりに登ってみたのです。
※写真は2017年7月撮影のものです。
この丘の中には特に目立った史跡や磐座などがあるわけでもなく、記事にもせず放置してきました。
先ずは簡単なプロフを。
標高は148m。北東から南西にかけて長く、べたっとした感じのなだらかな丘陵。
山や丘陵地に囲まれた平地に窮屈に造営された「飛鳥京」、丘上はそれを見下ろす格好。
この「甘樫丘」の尾根に蘇我氏の邸宅が作られたと考えられています。
邸宅は蝦夷と入鹿親子のもの。
どうやら城柵が設けられ、武器庫もあったとか。疑う余地も無く「要塞」であったかと。
なぜ「要塞」化する必要があったのか。
これを勝手に推理するのが歴史の醍醐味。
ましてやこの時代は専門外なので、臆すること無く気軽にやってしまえるのですが…。
「要塞」という軍事施設を造営したということは、戦争が起こっていた、あるいは戦争が起こりそうだから造ったとしか考えられません。
敵は…もちろん藤原氏。
結局のところ「要塞」が機能すること無く、入鹿は暗殺され、蝦夷は火を着けて自害。
紀には蘇我氏の専横ぶりが甚だしく、皇室の乗っ取りを図ったと記されます。
そもそも蘇我氏の外戚ぶりは甚だしく、乗っ取りどころか既に皇室だったのでは?などと素人なりに思うのです。
蘇我氏の地場であった橿原市の田舎では昭和の中頃になっても、藤原氏の末裔に対する迫害が蘇我氏の末裔の間には残っていました。
藤原氏にしてやられた…。藤原氏に対する遺恨は根強く残されていました。
紀の編纂には藤原不比等が暗躍していたというのが通説化。
藤原氏が良いように書かれて当然。
蘇我氏が悪いように書かれて当然。
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