【書紀抄録】稲飯命と三毛入野命の入水




…常々思っていること。

稲飯命と三毛入野命を
もっと称えねばならない!!!

神武天皇は四兄弟の四男。
紀の一書には別伝あるものの四男として進めます。

長男 → 彦五十瀬命(ヒコイツセノミコト)
二男 → 稲飯命(イナヒノミコト)
三男 → 三毛入野命(ミケイリヌノミコト)
四男 → 狭野命(神武天皇のこと)

長男の彦五十瀬命については記紀に記述も多く、また伝承地も泉州から紀州にかけて多く見られます。

ところが二男の稲飯命と三男の三毛入野命は、記紀の記述も少なく、また伝承地も少なく、そして墓所すらない状態。

これは「異常なこと!」であると思うのですが、誰も何も言わない。

今回その唯一とも言われる伝承地と、墓所ではないかとも言われる地を訪ねました。そして丁重に拝しました。

二柱の神は、自身を犠牲に(入水)することで東征を進めました。

当記事、またこの後上げる「楯ヶ崎」室古神社阿古師神社といった記事でささやかながら二神を称えたいと思います。


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【大意】
乙卯年(きのとうのとし)六月二十三日。皇軍は「狹野」を越え「熊野神邑」に到り、「天磐盾」に登るも引き返し進軍しました。
ところが皇舟は海中で暴風に遭い漂蕩してしまいます。稲飯命は嘆き「ああ!私の祖神は天神で母は海神。どうして陸で災厄に遭い、また海でも災厄に遭うのか!」と言い、剣を抜き入水、鋤持神(サイモチノカミ)となりました。
三毛入野命は恨んで言いました。「私の母と叔母は海神である。どうして波を起こして溺れさそうとするのか!」と。そして浪を踏み常世へと行きました。


【補足】
◎「狹野」は新宮市「佐野」が比定地。

◎「熊野神邑(くまのみわのむら)」は阿須賀神社の周辺が比定地。境内に「神武天皇聖蹟 熊野神邑顕彰碑」が建てられています。具体的には「三輪崎」ではないかとされています。

◎「天磐盾」は神倉神社の「ゴトビキ岩」が比定地。

◎二柱が入水した場所については記されていません。「二木島湾」を囲むように突き出す二つの半島の先端近く、室古神社阿古師神社の辺りがその場所に比定されています。

両地にはっきりとした伝承があること、他の地に伝承がまったく無いこと、次に向かう「熊野荒坂津」(別名「丹敷浦(にしきのうら)」)が「二木島(にぎしま)」と音が似ていることなどから。

ただし「熊野荒坂津」については、「大泊」説や「三輪崎」説の方が有力ですが。

「天磐盾」でなぜ引き返したのか?
これについては自説ながら、熊野大神を畏怖したのではないかと。

熊野大神とは、熊野一帯の陸から海からすべてを支配する神。暴風を起こしたのは熊野大神ではないかと。
またこの後、毒を吐いて皇軍を卒倒させたのも、進軍に対して険しい山中を用意したのも、何もかも熊野大神が為したことではないかと考えています。それを感じ取ったために一旦引き返したように思うのです。

◎なぜ入水せねばならなかったのか?
これについては当時の「末子相続制」が関わります。長男が「祭祀」を行い、末子がそれをもとに「政治」を行う。「祭祀」とは祖神等を奉り御教えを賜ること。

長男の彦五十瀬命が既に崩御。二男がその役を担う訳ですが上手くいかなかったために、自身の命をもって道を切り開いたことと思います。
ところが海神(熊野大神と考えます)の神威はあまりに強く、二男を継ぐ三男の命をもってまでしないと鎮められなかった、このように考えます。

季節的には台風シーズン。海上はとてつもない暴風雨が吹き荒れたのでしょうね。


とても穏やかな「二木島湾」。阿古師神社の社前から。



「楯ヶ崎」

阿古師神社

室古神社