☆神武天皇聖蹟 熊野神邑顕彰碑
(くまのみわむら)


紀伊国牟婁郡
和歌山県新宮市阿須賀1-2-28


神武軍が孔舎衛坂(くさのえのさか)で敗戦。
日に向かって戦うのは良くないと東側から進軍することに決め、紀伊半島をぐるっと周りたどり着いたのが熊野「神邑(みわむら)」。

ここにたどり着くまでに、
名草郡(現在の和歌山市)で名草戸畔(ナクザトベ)を誅したり、
敗戦が原因で失った長兄の五十瀬命を竈山に葬ったり(竈山神社、記事未作成)、
さらに狭野(さぬ、新宮市佐野)を越えて…とありますが。

この「熊野神邑」の伝承地を巡っては、
いろんな方が勝手気ままにいろんなことを述べられており、
この場所であるとしている方は少ないように思います。

そもそも分かりようもないことで
顕彰碑でも「此ノ地方」と濁しています。

当ブログでも勝手気ままに述べると…
「当地です!」…としておきます。

上陸すると神武軍は「天磐盾(あまのいわたて)」へ登ります。
これは神倉神社の「ゴトビキ磐」であるとすることで大方が一致。

このゴトビキ磐を見上げることができて、
なおかつ上陸しやすそうなところとなると
それはもうここが一番。

熊野速玉大社は残念ながら磐を見ることができないので外します。
熊野灘から熊野川にちょっと入り込んだ辺りがもっとも停泊しやすいのでは。

しかも蓬莱山という小さいながらも美しい山もあり、目印としては格好のもの。

さて、この後神武軍は丹敷戸畔を誅しますが
それから先はしばらく苦難の連続となります。

いずれ記事にしていきます。



(阿須賀神社)