神倉神社


紀伊国牟婁郡
和歌山県新宮市神倉113-8
(P有、538段の急勾配の石段を登る必要があり15分程度要します)

■旧社格
村社

■祭神
天照大神
高倉下命


「神倉山」(かんのくらやま、標高199m)の山頂に座する巨石「ゴトビキ岩」を御神体とする社。「ゴトビキ」は当地の方言で「ヒキガエル」のこと。高さ11m、注連縄は30mもあるとか。
◎当社の最重要点は熊野発祥の地であるとされること。つまり「熊野の根源」。
熊野大神は最初に「神倉山」に降臨、そして景行天皇の御代に熊野速玉大社へと遷ったとされています。
一方で阿須賀神社の社伝によると、最初は「神倉山」に降臨し三柱のうち家津美御子大神は「石淵谷」(いわぶちのたに、貴禰谷神社か)へ、結速玉大神の二神(夫須美大神と速玉大神)は当地にとどまったとしています。その後、第10代崇神天皇の御代に家津御子大神は本宮大社の方へ遷り、第12代景行天皇の御代に結速玉大神は新宮(速玉大社)へ遷ったとされています。
◎現在は速玉大社の摂社という扱いですが、熊野の根源がここから始まったと考えられています。速玉大社の境内から「神倉山」方向が美しく見えますが、「神倉山」と連なる千穂ヶ峰が手前に見え、ゴトビキ岩は裏側に隠れて見えません。これが当社と速玉大社の関係に異説を唱える根拠となっています。
◎2月6日に行われる「御燈祭」は、松明を持った男子たちが一斉に石段を駆け降りる「下り龍」とも称される勇壮な火祭り。当社を下った後は阿須賀神社へ、さらに速玉大社へと。これは阿須賀神社の社伝の遷座過程と合致するもの。
速玉大社の境内は神域のため発掘できないものの縄文時代の遺跡の宝庫となっており、それを鑑みるなら当社への信仰も縄文時代にはすでに始まっていたとみるべきでしょうか。当社を「旧宮」、速玉大社を「新宮」とも言うようです。
◎「ゴトビキ岩」の手前に岩を支えるかの如く社殿が建っています。その反対側には「袈裟岩」と称されるゴトビキ岩にひけを取らない巨石が座しています。そして奥にもう一体。その三体の巨石に挟まれた空間が古代の祭祀場所であったようで、そこから銅鐸片が22ヶ、滑石製模造品が出土しています。
◎この三体の巨石が据えられている下は巨大な露出岩盤。全容は捉え切れず不明ながら、数十mはあろうかと思います。これが縄文時代からの信仰の対象だったのではないでしょうか。その上に三体の巨石を組み上げ、岩影祭祀を行ったのが弥生時代。このように考えます。露出岩盤を含めて神殿といった具合に。
◎この「ゴトビキ岩」を陽石とし、花窟神社の御神体を陰石として対にみる、熊野ならではの壮大なスケールの考えも。
◎当社についてのもう一つの出色は、神武東征神話に現される「天磐楯」ではないかとされること。ご祭神にみえる高倉下命が神剣(布都御霊剣)を神倭磐余彦に献上し神武軍は復活、大和へと軍を進めたというもの。このときに登ったのが「天磐楯」。


*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。






鎌倉積み石段は全部で538段。あまりに急峻なため慣れるまでは戸惑います。登りよりも下りの方が困難。用意されている杖の利用をおすすめします。





こちらが銅鐸破片の見つかった古代祭祀場。





境内社 火神社他。

境内社 満山社

麓を。赤の三角印を付けたのが「蓬莱山」。


「現在地」とは熊野速玉大社 御旅所の近く。