熊野本宮大社
紀伊国牟婁郡
和歌山県田辺市本宮町本宮1110
(P有)
■延喜式神名帳
熊野坐神社 名神大 の比定社
■社格等
[旧社格] 官弊大社
[現在] 別表神社
■祭神
上四社
[第一殿 西御前] 熊野牟須美大神
[第二殿 中御前] 速玉之男神
[第三殿 証誠殿] 家津美御子大神
[第四殿 若宮] 天照大神
中四社
[第五殿 禅児宮] 忍穂耳尊
[第六殿 聖宮] 瓊々杵尊
[第七殿 児宮] 彦火火出見尊
[第八殿 子守宮] 鵜葺草葺不合命
下四社
[第九殿 一万・十万] 軻遇突智命
[第十殿 米持金剛] 埴山姫命
[第十一殿 飛行夜叉] 弥都波能売命
[第十二殿 勧請十五所] 稚産霊命
「熊野三山」の一。「熊野川」中流域、山中の中洲に鎮座していたものの、明治に起こった洪水で流され、現在は近くの高台に遷座されています。旧社地は「大斎原」(おおゆのはら)として中四社と下四社が祀られ、現在も祭祀が続けられています。
◎創建については当社公式サイトにて以下が示されます。
━━熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと「皇年代略記」や「神社縁起」に記されています━━
崇神天皇の時代に社殿等を設ける慣習はなかったと思われ、上代に遡らせたものかと。神武東征以前に鎮座していたかどうかについては、探りようもなく不明。東征時の経由地としてのことだろうと思われるも、記紀神話等には一切触れられておらず、こちらも不明と言わざるを得ません。なお崇神天皇六十五年を紀元前三十三年としているのは紀の記述を受けてのもの。実際は4世紀前半頃と思われます。
◎当社公式サイトでは「縁起・神話」として以下を掲げています。
━━天火明命は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」を献じてお迎えしました。
時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。
第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。
熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任しました。
このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました━━
時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。
第十三代成務天皇の御代には、国々の境が決められました。
熊野国は、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)と定められ、初代の熊野国造(長官職)には高倉下の子孫である、大阿斗宿裲が就任しました。
このように、熊野国造家は天神地祇の子孫である「神別諸氏」の氏族であり、物部氏の先祖でもあります。熊野本宮大社の神々は大阿斗宿裲以降、千数百年もの間、熊野国造家の子孫によって代々お祀りされてきました━━
◎高倉下を天香語山命と同神とみて、父の天火明命を冒頭に置いたもの。高倉下と天香語山命を同神とするには意見が分かれるものの、当ブログにおいては別神と考えます。また天火明命を祖神とするのも難ありかと。ここでは高倉下は海部氏(物部氏と同族としている)とは異なる出自であるため触れません。
熊野国造については、「先代旧事本紀」国造本紀に「熊野国造 志賀高穴穂朝(成務朝)の御世 饒速日命の五世孫 大阿斗足尼を国造に定め賜ふ」とあり、これを受けたものと思われます。熊野国造の裔は熊野氏とされますが、察するに物部氏系とされた(本来は異なると思われる)高倉下を奉斎するということを建前に、物部氏や阿刀連(物部氏の支族)といった大和朝廷内で権力を有する氏族に取り入ったのではないかと考えます。熊野氏が高倉下の後裔であるのかについては、検討を要するかと。
◎主祭神は家津美御子大神。熊野坐大神、熊野加武呂乃命と称されることも。
熊野三神(家津美御子大神・熊野夫須美大神・熊野速玉大神)はまず神倉山に降臨します。そして家津美御子大神は「石淵谷」(貴禰谷神社)へ、夫須美大神と速玉大神は阿須賀神社へ。しばらくとどまった後に夫須美大神と速玉大神は熊野速玉大社へ。さらに時を経て家津美御子大神は当社へ遷ったとされています(異説あり)。
◎当社においては家津美御子大神を素盞嗚尊としています。これについては異論が非常に多く、定説には至っていません。五十猛神とするものや自然神である水神とするもの、なかにはイザナミ神とするものまで。
「出雲国風土記」には、熊野加武呂乃命は伊弉奈枳命の御子神であると記されています。つまり素盞嗚尊のことであると。そもそもは木の神であると考えられており、素盞嗚神とするのか、その御子神である五十猛神とするのか、意見が分かれています。水神とみなすのは中洲に鎮座していたことによるもの。川から御蔭(みあれ)する自然神といったところでしょうか。
◎また速玉大神は熊野速玉大社においてはイザナギ神のことであるとされますが、当社においては速玉之男神のことであると。黄泉国にいるイザナミ神の元へ向かったイザナギ神が、変わり果てたイザナミ神の姿を見て離縁を突き付けます。そして吐いた唾から化生したのが速玉之男神。ちなみにそれを掃き払って化生したのが事解之男命。
◎第一殿と第二殿には表に出ない神が相殿として祀られています。第一殿には事解之男命、第二殿には伊邪那岐大神。表に出ない理由は不明とされています。
*神門から先は現在は写真撮影不可となっています。掲載した写真は2007年~2008年頃撮影のものと思います。
*その他過去数年に渡る参拝時に撮影したものが混在しています。