【読み下し文】
六月乙未朔丁巳 軍は名草邑に至る 則ち名草戸畔という者を誅す 戸畔は此れ妬鼙と云う 遂に狹野を越え而して熊野神邑に到る 且つ天磐盾に登る
仍て軍を引いて漸進す 海中で卒に暴風に遇い皇舟漂蕩す 時稻飯命の嘆いて曰く 嗟乎 吾の祖は則ち天神 母は則ち海神 如何我陸に於いて厄い 復た我海に於いて厄い乎 言い訖え劒を祓き入海 化して鋤持神と爲す 三毛入野命復た恨で曰く 我母及び姨は並びに是海神 何爲波瀾を起こす 以て灌溺乎 則ち浪秀を蹈み而して常世鄉へ往く乎矣
【大意】
(五瀬命は薨去し竈山に葬られました) 六月皇軍は名草邑に到り名草戸畔を誅しました。「戸畔」の読みは「とべ」。そして「狹野」を越え熊野神邑に到ります。「天磐盾」に登り徐々に進軍します。海中で突然暴風に遇い、皇軍の舟は漂蕩しました。その時稲飯命は嘆いて「ああ!私の祖は天神、母は海神、陸では災いに遇い、海でも災いに遭うとはどういうことなのだ!」と言い終えて海へ入水、劒持神と化しました。また三毛入野命は恨んで言うには「ああ!私の母と姑(またはその妹か)は海神であるのに、なぜ波瀾を起こすのだ!溺れさそうとするのだ!」と、浪を踏み常世の国へ往きました。
【補足】
・名草戸畔に関する記述は「則誅名草戸畔者 戸畔 此云妬鼙」の一文のみ。「誅」と記してはいるものの地元の伝承はまったく異なり、皇軍(神武東征軍)を追い返したとされています。もちろん紀は大和王権側の書。書こうにも書けなかったと判断するべきでしょうか。
・「天磐盾」は神倉神社の「ゴトビキ岩」と考えられています。
・孔舎衛坂の合戦で長兄を失い、次男稲飯命、三男三毛入野命と相次いで失いました。この時代において祭祀を司るのは長兄。その長兄が祭祀により授かった神託を忠実に実行に移す、つまり政治を行うのは末子であったと考えられます。政治よりも祭祀が重要であったとされます。またその神託に従った結果、上手くいかなかった場合は責任を取る必要があったのではないかと考えられます。
これで四兄弟のうち三人の兄を失った神倭磐余彦命(神武天皇)。祭祀も政治も行うことになったためか、即位後に天神地祇を祀り大孝を述べています。