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 「私は、言葉の力を信じている。この本に集められた、数々の表現者の血が流れている、言葉のありったけに託している」(p.188) と書いている茂木さんのエッセイ集。かつて触れた珠玉の言葉たちに還りつつ、そこを再び確認しつつ起点にしたい心が伝わってくるけれど、チャンちゃんは学生時代に読んだ作品の中で出会った珠玉の言葉の多くに還流していない。スピリチュアル(精神世界)系の分野に足を踏み入れると、螺旋状であれ上に揚るから、文学の沃野を成り立たせていた「悲しみ」や「感傷」といった言葉の同一地平面には還流はしないのである。2011年8月初版。

 

【三島由紀夫に関する言いぐさ】
 「三島の小説は良いが、その行動はどうも」、というのは三島由紀夫という人を切り分け、解析する人の言いぐさである。それは一つの見識ではあろうが、一人の人間のたった一回の人生に寄り添った態度ではない。
 三島は、ただ、自分の生来の性分に加えて、生きる中で蓄積したさまざまな事柄に感化されて、いわば止むに止まれず生の必然の中で、行動に出てしまったのだ。それを愚かであるとか、違法であるとか、そう言い立てても三島由紀夫その人には迫れない。(p.20)
    《参照》   『アホの壁』 筒井康隆 (新潮新書)

              【アホな死】

 「三島の小説は良いが、その行動はどうも」というような表現をする人は、それほど“純粋さ”のない人なのだろう。チャンちゃんは三島の作品といえば、『金閣寺』という絢爛たる文学芸術と、“純粋さ”の極みとしての『豊饒の海・第1巻「奔馬」』を想起するのだけれど、そこそこ純粋な性を有する人なら、純粋さのもつ狂激性に思い至らないわけはないのだから、「・・・その行動はどうも」などと口をついて出てくるわけはないのである。チャンちゃんは「純粋さという輝点を感じられない文学など、文学ではない」とすら思っているし、「純粋さという輝点を感じられない人には、スピリチュアルな伸びしろもそれほど期待できない」と思っている。
   《参照》   『おおい雲』 石原慎太郎 (角川文庫)

             ◇三島由紀夫

 

 

【生の根本に潜む虚しさ】
 私たちの生の根本に潜む虚しさは、まさに、いきいきとした「現在」がやがて「過去」に流れ去ってしまうことに起因している。(p.29)
 「そうかなぁ~」と思いつつ、「そんなのは人それぞれだから」と言い添えて終わってしまうのもちょっと気が引けてしまう。文学を愛好していた20代の頃の自分だったら、同じように思っていただろう。でも、今は違う。
 このような思いは、スピリチュアルな認識における時間の解釈に触れていないからこそあり得る表現であって、スピリチュアルな時間の解釈を踏まえると、「現在の思いにつれて、過去も変わっている」のである。
    《参照》   『シリウスの太陽』 太日晃 (明窓出版) 《前編》

              【『中今』について】

 故に、「生の根本に潜む虚しさ」と表現する場合であっても、それは「時」にではなく「魂の帰属不良」に起因するものだと思っている。
 真実を見据えてしまった人は、きっと必ずさびしくなる。(p.44)
 真実を見据えたら人は、さびしくならない。さびしくなれない。真逆だろう。
 感傷は生きることのふるえのすぐ近くにあるものである。立原道造の言うように、「感傷を怖れる所に、誠実真摯はない」。自分自身の感傷に向き合うことがなければ、人生は生きていく甲斐がない。(p.86)
 この記述にも違和感がある。
    《参照》   『生きるも死ぬもこれで十分』 帯津良一 (法研)

              【かなしみをベースとして・・・?】

 

 

【権威と漱石】
 漱石の頑なさが何に由来していたのか、想像するしかない。おそらくは、当時の日本という国家の在り方、国家に支えられた「権威」の作用について、深い不満と憤慨の念を抱いていたのだろう。いかに、権威が人を堕落させるか、多くの実例を見ていたに違いない。(p.62)
 百閒の書き残した漱石の思い出の中で、印象的なのは「書」に関するもの。百閒が漱石の書をありがたがって飾っているのを知った漱石が、「代わりのものを書いてやるから、それを持って来い」と百閒に言った。そうして、百閒が持参すると、目の前でびりびりと破ってしまったというのです。微温的な表現者にありがちなナルシシズムのかけらもない、漱石の激烈なふるまい。(p.63)
 漱石がこれほどまでに権威に憤慨していたのは、「時代の権威」であるかのような国・英国に洋行(留学)した折、日本人であるというだけで、見下された体験が数多くあったからであろうことが記述されている。
 いつの時代でも「権威」に靡き迎合し阿諛し追従する人々はたくさんいるだろうけれど、インターネットが発達してきた現在、「権威」たちの「嘘ッパチぶり・不正ぶり・邪悪ぶり」など、誰でも数多の実例から知ることができるのだから、「権威」に頼って判断し生きている人々は、明らかに破廉恥な愚者の側に分類されるだろう。
 しかしながら、「権威」たちが支配者として維持している貨幣経済社会体制下において、「カネ」の有無と「権威」の有無は、極めて高い比例関係にあるあるから、愚者はなかなか止められないだろう。

 

 

【イヤダカラ、イヤダ】
 その百閒が、1967年、芸術院会員に推挙された時、「イヤダカラ、イヤダ」と言って断った。・・・中略・・・。芸術の本質と、「権威」や「お墨付き」は関係ない。権威に頼るのは、創造性の衰退の兆候である。洋の東西を問わず、フランスでは、国主催の「サロン展」に落選した人たちの間から、印象派の画家が現れた。
 漱石も百閒も。芸術に生きた人だった。(p.64-65)
 芸術に生きているのではなくても、「権威に追随するのは、間抜けすぎるカラ、イヤダ。」と言うべき。

 

 

【小津安二郎の『東京物語』】
 小津が、広い世界を知らなかったわけでは決してない。戦争中は、シンガポールに赴任して『市民ケーン』や『風と共に去りぬ』などのアメリカ映画を大量に見た。小津は、世界の映画を誰よりも知っていた。やがて日本に帰ってきた小津安二郎は、敗戦の精神的打撃に打ちひしがれる小さな島国の日常を抱きしめることを選んだ。そこには、どれほどの決意と覚悟があったことだろう。
 劇的なドラマなど要らない。ただ平凡な、日常があればいい。自分の心に寄り添って、淡々と日々を営むことの平安。それこそが至福だと私が心の奥底から思えるようになったのは、小津安二郎という稀代の芸術家の叡智に触れた結果であった。(p.104-105)
 茂木さん自身も、ニーチェ、ドストエフスキー、ゲーテなどに触れて、日本には「本物の生活」がない、とまで思い込んでいたという。しかし、そんな思い込みのまま、小津の『東京物語』を見た時の思いが、以下のように書かれている。
 いい映画だと思った。何か、今まで知らなかった、素晴らしいものに出会ったような気がした。しかし、何に遭遇したのかは、よくわからなかった。ただ、まるで温泉に浸かっているような、ほのぼのとした感じが残った。(p.100)
    《参照》   『ブッタとシッタカブッタ2』 小泉吉宏 (メディアファクトリー)
              【幸せ】

 

 

【創造性とコントラスト】
 人間の脳は、常に「新奇性」を求めている。どんな喜びでも、それが続くことで精神は馴化していってしまう、悲しみの中に差し込む喜びこそが、爆発的な神経細胞の反応をもたらす。その超新星のような激しい活動を知っているからこそ、創造者は本能的に喜びと悲しみのコントラストを求める。(p.114)
 創造の元となる高低差(電位差)は、喜びと悲しみのような感情的コントラストに因るのだろうか?
 信じるということは、理想的には一点の曇りもあってはならないようであるが、実際には信仰の根幹を揺るがすような疑いの契機があってこそ、それを乗り越えた信仰は強固なものとなる。・・・中略・・・。
「神の沈黙」は、信者にとっての試練である。疑いがあるからこそ、信仰は深化する。(p.114-115)
 ここにある信仰の深化も、積年の地上的詭弁によって培われた袋小路脳内回路の認証という感じがしないでもない。
 本当の創造性は、二元によって生み出される高低差(電位差)によって生ずるのではなく、宇宙的流動への「大いなるあけわたし」によって生ずるものであると考えたい。
   《参照》   『タオの法則』 千賀一生 (ヒカルランド) 《前編》

            【玄牝(げんぴん)の門】

 

 

【踊りとは・・・】
 なぜ、白無垢の衣装を着た花嫁人形を見ると、鼻の奥がつんとするような、それでいて深く癒されるような思いがするのだろう。土方巽の暗黒舞踏の真髄は、実にその点にあったように思えてならない。
 「踊りとは命掛けで突っ立った死体である」。(p.125)
 白無垢の花嫁人形とは、結婚せずに亡くなった若者の無念を慰撫するために奉納された人形のこと。
 つまり、土方巽の暗黒舞踏の真髄は、能楽の主題と同じように、いわば死霊(地縛霊や怨念霊)に成り代わって(憑依されて)の踊りということになる。
    《参照》   『歌舞伎と日本舞踊』 高橋啓之 (サンリオ)

              【道成寺】

 高次な宇宙的流動にシンクロしようとする踊りならいいけれど、このような下層霊界に波長を合わせる舞踏は全然感心しない。
   《参照》   『狂の精神史』 中西進 (講談社文庫)

              【狂ほす】

 そもそも、この次元(下層霊界)を基とした芸術表現は、地球進化(アセンション・周波数上昇)に連れて波動帯域がなくなるから、必然的に消えてゆく定めである。
    《参照》   『天河流動縁起』 祜松泰成 (コスモ・テン) 《後編》

              【天河流動の真の意味】

 

 

【僕が僕であるために、勝ち続けなくちゃならない】
 僕が僕であるために、勝ち続けなくちゃならない
 尾崎豊が明かるい声で歌い上げるこの詞の背後には、一筋縄ではいかない人生の機微がある。・・・中略・・・。
 
「僕が僕であるために」
 私の人生においてそれが何を意味するのかということは、自分には明確にわかっていたような気がする。そのことを思うと、身が引き締まる思いがする。・・・中略・・・。それはきっと、社会の中で何の価値もなくても、ただ自分が自分でありさえすればよかった、幸福な幼少時代に戻りたいという一つの衝動でもあるのだろう。(p.144-145)
 社会意識に染まらない、自由で純粋な本来あるがままの自分自身を維持すること。
 尾崎豊のプロテストソングの基底はこれだろう。
 人は食べなければならない。食べるためには、仕事をしなければならない。仕事の在処、その性質は、市場経済における需要で決まる。私たちが社会人になるとは、つまり、社会の中にすでにある需要に合わせて、自分を作り変えていくことを意味するのではないのか? それは、見方を変えれば、つまり、「負け続けている」ということである。(p.142)
 この記述と同じことを言っている下記リンクは、この読書記録のブログの中で、最も頻繁にリンクしている。
    《参照》   『アセンションの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド)  《前編》

              【社会意識(コントロール・グリッド)という檻から出る】

 

 

<了>

 

  茂木健一郎・著の読書記録

     『響きあう脳と身体』

     『心と脳に効く名言』

     『化粧する脳』

     『それでも脳はたくらむ』

     『自分の頭で考えるということ』

     『日本のクオリア』

     『脳を鍛える読書のしかた』

     『今、ここからすべての場所へ』

     『フューチャリスト宣言』 梅田望夫・茂木健一郎

     『脳を活かす生活術』

     『脳を活かす仕事術』

     『女脳』 矢内理絵子・茂木健一郎

     『脳が変わる生き方』

     『天才論』

     『涙の理由』 重松清・茂木健一郎

     『クオリア立国論』

     『人は死ぬから生きられる』 茂木健一郎・南直哉

     『ひらめきの導火線 トヨタとノーベル賞』