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 著者はホリスティック医学のお医者様。ホリスティック医学というのは、病気の部分だけを見るのではなく、部分が悪いのは全体が正しく機能していないからだ、というような考え方で治療に当たる医学のこと。但し、著者の意味する全体は、「体全体」ではなく、「その人がいる場を含む全体」ということらしい。その場では、心や気といったものが生む無形のエネルギーが重要になってくる。2010年6月初版。

 

 

【絶好調で死のう】
 エネルギーが衰えていって死を迎えるというのではなくて、死ぬときこそエネルギーを最高潮にもっていくという生き方です。
 そういう生き方を心がけていれば、特別な健康法などしなくても、まわりから「元気ですね」とか「元気の秘訣を教えてください」といわれるような日々を送ることができるはずです。
 何歳であろうとこの世に生命のあるうちは、まだまだ自分はエネルギーを高めていくのだという気持ちを続けて、毎日を過ごしてください。(p.26)
 これを読んで、ニュアンスは違うけれど、似たような内容を思い出した。
   《参照》   『玄理玄則』 玄秀盛  ゴマブックス

             【必死】

 

 

【“ときめき値”を上げる生き方】
 生命エネルギーは“ときめき値”の高い経験を積めば積むほど充填されます。守りの養生は、生まれたときに持っていたエネルギーをできるだけ使わないようにする生き方で、“ときめき値”を上げるという姿勢ではありません。老後のためにせっせと貯金して、それを減らさないように節約して生きていくようなものです。(p.31)
 貯金の残額が少なくなったら、「いっそのこと全~~部、徹底~~~的に使ってしまおう」と思って行動できるくらいの人なら、“ときめき値”がガンガン上がって、生命エネルギーは返って充填されるだろう。
 長期間、守り一辺倒の生活を続けるなんて、やってみたらこれほど辛いことはないような気がする。
 今日のように娯楽などなかった時代に、日本中で行われていた「祭り」は、財をも一挙に蕩尽することによって、共同体全体で生命エネルギーを高めようとする生き方だろう。
 日本の文化基盤である神道は“穢れ”を最も嫌う。「ケガレ」とは「気枯れ」であるから、太古から日本人は、気が枯れて生命エネルギーの低い状態で生きることを、良くない状態と認識して忌み嫌っていたのである。

 

 

【「主義や原則」順守より、「ときめき値」優先】
 「肉を一切れ食べたら死んでしまう」
 と、脅されながら玄米菜食に励んでいる人も見受けられます。しかし、恐れを抱きながらの食事では、生命エネルギーは高まりません。(p.36)
 「主義や原則」順守の背後に“恐れ”が潜んでいるとしたら最悪である。トキメキは即死してしまう。
 宗教の場合でも“恐れ”を前に立てて勧誘するのは、明らかに邪宗門徒である。

 

 

【イメージの力を活用する】
 仕事や人間関係などで行き詰まりを感じたり、心が落ち着かないときには、しばらく手を休めて自分の好きな場所をイメージしてみてはいかがでしょうか。場所でなくても、頼りになる人、憧れの人、愛する人などの顔をイメージしてエネルギーをもらうのもいいでしょう。 ・・・(中略)・・・ 。
 イメージは自由に広げることができます。大宇宙をイメージすれば、無限のエネルギーをもらうことができるでしょう。お金もかかりませんから、イメージの力は大いに活用すべきだと思います。(p.54)
 この部分を読んでいた時、ふと瞳を上げて、本の先にあった冴えた青い空とそこに浮かぶ白い雲に引き込まれてしまった。空を見るのが好き、とか、雲を見るのが好きって言う人々は、イメージ以前に、直に自然からエネルギーを供給してもらっている人々なんだろう。

 

 

【かなしみをベースとして・・・?】
 人間はその本質であるかなしみやさみしさをベースにして今現在を考えられるようになったとき、自分の生老病死とも本気で向き合えるようになります。そして、同時に非常に純度の高い生命エネルギーを得ることができるのです。
 作家で写真家の 
藤原新也さんは、「かなしみのなかに人を癒す力がある」とおっしゃっています。
 そう考えていくと、私は自然治癒力というのは、かなしみのことではないかと思えてくるのです。誰もがかなしい存在だからこそ互いを敬いあい、励まし合い、愛しあう・・・・。
 そんな気持ちが働いたとき、自然治癒力もまたうごきだすのかもしれません。(p.65-66)
 「えぇ~~? そうかなぁ~~~?」って感じ。
 神道を学ぶ以前、仏教的世界観しか知らなかった20年ほど前だったら、この記述に違和感はなかっただろう。しかし、今のチャンちゃんにはピンと来なくなっている。不明のまま読み続けていたら、以下のような記述があった。
 著者が、英米文学者の 加島祥造さんと対談したときのこと
 加島先生が「ひとつだけ意見が違うとこがある」とおっしゃいました。「人生はかなしいものである」と書かれているけれど、私はそうは思わないといわれたのです。私は、さてどう答えれば、私の真意が伝わるかと考えました。そしたら、パッと「旅情」という言葉がひらめいたのです。
 「人生というのは旅情です。虚空からただ一人この地球に降り立ち、また一人で虚空に帰って行く孤独なる旅人である私たちは、いつも旅情を抱いて生きているのだと思います。」(p.95-96)
 この記述にある「ただ一人この地球に降り立ち、また一人で虚空に帰って行く孤独なる旅人」とは、神道的な表現で言えば「火の鳥」になるだろう。
   《参照》   日本文化講座⑧ 【 武士道 】

             『 武士道は不死鳥である 』

 しかし、「火の鳥」と「旅情」は、どうしても結びつかない。無理である。
 かなり以前から、自分を評して能天気という表現を何度も使ってきたけれど、それは、自分の中で悲しみの感情が壊れちゃった(無くなっちゃった)かもしれない、と思っているから。
 「かなしみ」や「さびしさ」というのは、おそらく「地の理」に則した時に出てくる感情だろう。死んだとき行くべき先をはっきり自覚している人や、近未来の世界を明るいと確信している人は「天の理」に則してシフトしてゆくから、「かなしみ」という感覚から遠くなってしまうような気がするのである。
 著者は、「地の理」に則した認識世界で生きている患者さんたちの心を掬する立場で治癒を施すお医者さんだから、「かなしみ」をベースとした自然治癒力を感知するケースが多いのだろう。

 

 

【志の温度管理】
 現実はどうあれ、志がそこにあることだけを確認すればいいのです。
 ウイスキーの蔵でいえば、温度管理です。志の温度管理ができていれば、何年もたつと、おいしいウイスキーが出来上がるのと同じように、その人にもあるとき大きなチャンスが巡ってきて、人生の花が開くといううれしいことが起こってくるはずです。(p.149)
 「志」を一定に保つこと。これって案外、簡単じゃない。
   《参照》   『未来を拓く君たちへ』 田坂広志 (KUMON)
              【志】
 

 

【死生観】
 生きることから死を見ると、不安や恐れが出てきます。しかし、死を前提に生を考えると、その場所こそが人間の究極の目的地ですからたどりつくのが楽しみになります。そして、死が楽しみになると、不思議なことに生が充実してきます。私は、その感覚が好きで、死も生も喜びとして受け取ることが出来るようになってきたのです。(p.185)
 ここに書かれているのは、非常に分かりやすい死生観だけれど、もうちょっと違った角度で死生観を活かしたいなら、下記のリンクがいいかも。
   《参照》   『日本人よ、侍スピリットでよみがえれ!』 竹村健一・鍋島健士 (致知出版) 

             【 治療と 「葉隠の死生観」 】

 

 

<了>

 

 

   《類書》  『人生の実力』 柏木哲夫 (幻冬舎)