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 鍋島さんは、1928年生まれで、アメリカで活躍している鍼師さん。名前の通り 『葉隠』 を後世に残した佐賀・鍋島藩士の血筋を引く方。2002年9月初版。

 

 

【霊的な健康】
 特にこの1,2年、WHO(世界保健機構)の健康の定義の中で、霊的な健康ということが真剣に議論されています。最近、アメリカでもシャーリー・マクレーンが本を書いて以来、お医者さんも違和感なく霊の話をするようになりました。(p37)
 2000年頃、WHOの定義の中に “霊的な健康” という言葉が入っていたのに、日本の医療の現場では今でもそんな言葉を聞いたことはない。
            【霊的健康】
 霊的なるものを感じている気功師・整体師・鍼灸師といった人々は、「近隣の○○整形外科病院では、経営上の目標として毎月3人、外科手術用に生贄が供されている」 と言っている。
 アメリカの医科大学で現在たくさんの女医さんが鍼をやっていますが、いちばん活躍している鍼師は日本人の女性です。まだ、4、50代ですが、去年からハーバード大学で教えておられますよ。(p.48)
 西洋医学と東洋医学はそれぞれに長所があるけれど、日本ではどうして互いの長所を活かすべく融合してゆかないのだろうか。答えは簡単。莫大な利益を生む製薬業界が、邪魔者である東洋医学的知見が活躍できないよう、医師たちに賄賂をおくって、医療市場を制圧しているからである。
              【日本人のために機能しない医療の元:ワイロ漬け】

 

 

【アメリカでの鍼のパイオニア】
 アメリカでパイオニアということは、日本・中国以外では、あなたが最初に外国で鍼を使ったということになりますかね。(p.62)
 鍋島さんは、40歳(1968年)でアメリカに渡り、テキサスやハワイで鍼の治療を始めた。
 座骨神経痛を患っていたアメリカでの最初の患者さんのエピソ-ドが興味深い。
 当時の鍼の業界では、座骨神経痛は20回治療しなければダメだというのが定説でした。 ・・・(中略)・・・ 。東洋医学の沽券にかけても、どうしてもこの患者を治さなければならない。20回というと、気が遠くなるような話です。
 ところが、15回まではなかなか治療の効果が出なかった。私も焦ってきましたね。20回までは残りが少ない。そんなとき、結果がはかばかしくないのをみたマックが、治療をやめると言いだした。
 通訳を務めてくれた人が 「ユー・アー・ノット・フェア」、あなたはフェアじゃないと言ってくれた。20回って言ったじゃないか、それを15回でやめるのはなぜだというわけです。(p.66)
 通訳さんの “フェア” という言葉は、アメリカ人にとってはとてつもなく有効だったはず。
 それで、20回目に本当に治ったんです。天の助けとしか思えません。(p.68)
 とにかく体も心も治るというのが鍼の面白さです。その上に祈りとか希望という薬や励ましを加えると、さらにいい。それがだんだん分かって来たんですね。だから治療としては30年前と同じことをやっているんですが、昔なら20回で治ったものが、いまは5回から10回で治ってしまう。(p.116)

 

 

【もののあわれを知る】
 思いやりというのは大切ですよね。昔の日本人が持っていた、もののあわれって言うんですか。剣道の先生が言っていました。「日本人の極限は大和心だ。もののあわれを知る心だ。自然のことをよく知って、それに逆らわずに調和しなさい」 ってね。
 もののあわれを知る。それは医の原点だと思いますよ。患者さんがなぜその病気になったのかを考える。心を開いて、奥底に溜まっているものを吐き出させることができれば、直してあげられるんです。
 励ましてあげたり、希望を与えたりすれば、治らない病気なんてない。それが分かるようになったら、どんな治療をすればいいのかわかってきましたね。だからいまは、その方法でやっているだけです。(p.156-157)
 鍼師といってもカウンセラー的な施術を組み合わせてこそ、その効果がはっきりと表れる。心の奥に溜まったものが一掃されなければ、いかなる治療であれ、その効果は一時的で、元に戻ってしまう可能性が高い。
 有名人をクライアントに持つフィリピンのバギオ出身の心霊手術師が、鍋島さんに言った、
 お前の鍼と組んで世界を回ったらすごいぞ、と言いだしたんです。(p.128)
 フィリピン人の心霊手術師は、鍼治療において霊的に秀でた効力を惹起する日本人にしかできない心の使い方を見込んだが故に、鍋島さんを誘ったのだろう。
 “もののあわれ” は東洋仏教圏に共通する用語ではない。日本固有の概念である。
   《参照》   『「脱亜超欧」へ向けて』 呉善花 (三交社)
             【もののあわれ】

 

 

【 治療と 「葉隠の死生観」 】
 キューブラ・ロス博士は 「人は学び、成長し、執着が薄れ、何ものも、何一つ自分のものはないのだという事実に気づく。そうすれば、死ぬことも怖いはずがない。そして、苦痛は小さな死であり、小さな死こそは執着を捨てるためのよい教訓だ」 といいます。常住死身という葉隠の死生観と一脈通ずると私は解釈しています。(p.185)
 「小さな死」 を何度か積み重ねて 「何一つ自分のものはない」 という認識に至る。
   《参照》   『人生の実力』 柏木哲夫 (幻冬舎)
            【「小さな死」 と 「本当の死」】

 このような受動的な認識を、能動的な行動原理としての認識に高めたのが、「葉隠の死生観」 なのであろう。
 死生観という観点を用いずに、アメリカ的に(やや哲学的)に学ぶなら、
 Now here が nowhere であり、nobody が no body であることの意味に気づけもする。
   《参照》   『不思議の科学』 森田健 (同朋舎)
            【 『わたしは誰でもない』 】

 いずれも、執着を離れるための方法である。
 「ディタッチメント・アンド・リバース」、つまり 「無執着と再生」 という言葉を、われわれは金科玉条としてよく使います。テキサス大学の文学史の先生にその話をしたら、「いや、ダンテも詩の中で、同じことばを使っていますよ」 と、英語でそれを書いてくれました。(p.160)
 
 

<了>

 

 

 本文中には、「武士道」 という言葉が何回も記述されているけれど、その個所は引用しなかったので、
      《参照》   日本文化講座⑧ 【 武士道 】