イメージ 1

 

 この書籍、以前に読んだことがあるような・・・と思いつつ読んでいた。著者は他の複数の著書で書いていたことを、最終的にこの本にまとめて記述したようである。著者の日本文化考察の最終到達点として総括的に記述されているようだ。


【日本を理解するカギ(著者の前提となる論旨)】
 今の日本の中には大きく分けて、欧米的な世界、農耕アジア的な伝統世界、そしてもう一つ、農耕アジア以前に由来する世界の3つがあると私は理解しています。この3つ目の世界を私は「前アジア世界」と呼んでいますが、これは自然と人間をあまり区別することなく生きていた時代の感覚・感性です。「もののあわれ」的な美意識も、そこに根拠があり、後に仏教の無常観と結びついてできたものではないか思います。この3つ目の世界こそ、日本を理解する最大のカギなのです。
 以上が著者の前提となる論旨である。私は、

 この3つ目の世界こそ、「神道の世界」 と考えている。神道のことを、「随神の道」 とも 「惟神の道」 とも書き、いずれも 「かんながらの道」 と読む。



【外国人でなければ気付けない日本語の特性】
 著者は韓国人であるから、日本語表現の中に受身表現が非常に多いことを感じていたという。「・・・させていただきます」 というような日本人が多用する受身表現は、韓国にはないという。この表現は慎み深く謙虚な印象を与えるが、社会的な人間の上下関係を考慮して謙虚に表現しているというよりは、目に見えざるものに対する慎みや謙虚さ故の表現である。
 「お蔭様で」 のような表現も同様であろう。日本人は 「自(みずか)ら成す」 ことより、「自(おの)ずから成る」 ことの方が居心地が良いように、また価値が高いように感じていると思う。これも自分以外の処に価値を委譲する日本文化の顕れである。
 これらの日本人の言語表現の背景を考察して、著者は 「日本人には 『自然に対する絶対信頼』 がある」 と言っている。その通りだと思う。「自然は神なり」 というのが神道の根本的な考え方なのだから。


【もののあわれ】
 移ろい行くものを見て感じて表現される 「もののあわれ」 とは、“生命のありよう全体を美と認識する見方” である。移り行く四季それぞれの中に美を見出し、花は咲き誇る状態だけを美しいとするのではない。そんな日本人の美意識に基づく見方である。
 一方 「無常観」 を共有しているはずのアジアの仏教国に 「もののあわれ」 に類する言葉はないと言う。故に 「もののあわれ」 は、日本人の 『自然に対する絶対信頼』 と仏教の 「無常観」 の融合によって、日本に定着した文化的発想であると。
 霊学的視点を重視する私の見解をいうならば、仏陀は日本で 「もののあわれ」 を学んでインドで 「諸行無常」 を語ったのである。孔子にしてもキリストにしても然り。「あい」 は日本そのものである。


【分別智を厭う日本】
 主語がない表現が可能である日本語の特徴を肯定的に解釈するならば、
 《 主語が無い → 全体を捉える → 分析させない 》 という長所があることである。
 西欧が導いてきた近代科学的合理主義にとって、分析する知性は必要不可欠のものであるとは思うけれど、分別智が万能であるとは言えない。ハイゼンベルグの不確定性原理やゲーテルの公理を知った理論物理学者や数学者は、とおの昔から東洋の英智に活路を見出そうとしてきたのである。
 その向けられた先は、インドのアシュラムにおける瞑想や、華厳経の世界や、ヒンズーの神々の世界観や、日本の仏教・禅だったようである。故に日本人より、東洋に関心を持つ外国人の方が、禅に詳しかったりする。しかし、日本の神道は未だにベールに包まれたままになっているようだ。
 とにもかくにも、分別智的能力に侵犯されていない日本語を話す人々(日本人)が持つ潜在力は大きい。


【日本語を話す人々が、世界を新たな発明で救済する】
 日本人は外国人に比べると、固定観念はかなり薄いそうである。分別智を排するなどの日本語の言語的特性によるところが大きいようである。固定観念(思い込み)の強弱は場面によって長短いずれにも機能しうるけれど、少なくとも、固定観念なき自在性は、新たな発想力を生み、神なるものの世界へ通ずる回路として優れている。というより必要不可欠なものである。新たな発明のようなヒラメキは日本人技術者によってもたらされる可能性が高い。
 また、日本人の科学技術者にとって、日本語の繊細さは、未知なる科学技術的世界を明確に言語化し意識化しうるという点において自覚せずとも強力なツールとなっているのである。

   《参照》  『伝統の逆襲』 奥山清行 祥伝社 《後編》

            【「ミリ」がわからず、「美味しい」がわからないアメリカ人】


【幼形進化論と脱亜超欧】
 ニューエイジ関係の本(F・カプラの『ターニング・ポイント』だったか?)を読んでいて、「進化の方向が誤りであった場合、常に幼形の地点にまで戻って分岐進化が行われる」 と書かれていたのを記憶している。
 この幼形進化論を、呉善花さんの脱亜超欧という論点に当て嵌めるならば、「3つめの世界(=前アジア的世界=神道の世界)を基点として再度、日本と世界の進化を見直すべきである」 ということになる。
 日本人が、もっと日本の原点を自覚するならば、世界の中心に立って世界を善導できるのである。


【ドグマなき神道、しかし・・・】
 日本の神道には、バイブルやコーランや仏典などのような依拠する経典はない。あるのは 『古事記』 のような一般に神話と呼ばれているものだけである。(単なる神話などではないのであるが・・・)
 故に 「原理主義や教条主義を主張して鋭く対立しあう現在の世界状況の中にあって、ドグマなき神道こそが対立を回避できる唯一の宗教である」 などと語った処で、あまり意味はない。宗教云々の括りで優劣や価値を語っていても始まらない。バチカンは20年も前からそれに気付いてエキュメニカルを実施しているが、イスラム原理主義に対して何の実際効果も上げていない。現在の世界は、地球は、宗教界の主張で収まる程度の状態ではない。すでに余裕がなくなっているのである。


【神道とは日本そのものである】
 経典なき神道とは、日本および日本文化そのものである。日本神霊界の構造が日本社会の構造として顕れている。
 日本は船に乗ってやって来た “七福神” に象徴されるように、海外の文物をジャカスカ取り込み、それらをより繊細なものに仕上げることのできる奥深い文化力のある世界で唯一の国である。このように、日本社会に取り込まれ、消化吸収された後、生み出された美質(繊細さ)が、これから更に世界に広まって行く。

   《参照》   『大創運』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》
              【日本神霊界】

 高品質な電化製品や自動車、はたまたマンガやPCゲームやアニメ映画は既に先陣をきって世界中に広まっている。これらの背後にある日本の美質、即ち繊細さに一度でも触れ得た世界の人々は、粗雑なものはやはり敬遠するようになるのである。
 世界中の多くの人々が日本に目を向けるようになる前に、日本人は日本文化の基底である “日本人のたしなみ” を再度おさらいしておいた方が良いのではないか?


【日本は更にグレードアップする】
 日本神霊界はグレードアップした。日本の政治も外交も、腰抜けヘドモド状態からは抜け出す。日本人は誇りをもてるようになり、遠からず、世界は日本に熱い視線を向けるようになるであろう。日本なくして世界は維持できないからである。
 誇り高き国・日本。世界に二つとない霊峰 “富士・不二・22” が聳える国・日本。単なる言葉遊びではない。言霊・数霊の秘めおかれし国・日本。神います国・日本。神国日本。神と共に栄える国である。


【世界の中心で愛を叫ぶ】
 10年のほど前であったか、「風の谷のナウシカ」 が流行って間もなく、オウムが地下鉄サリンの凶行を行った。芸術家は彼らなりの感性で時代を敏感に捉え予知していたのである。ナウシカの純粋な魂が、自己犠牲を厭わぬ愛が、オウムの暴走を最小限の被害で食い止めたのである。
 昨年 「世界の中心で愛を叫ぶ」 というタイトルの映画が流行った。私にとって、世界の中心は日本である。日本そのものである日本語の “かな” は 「あい」 で始まる。オーストラリアのエアーズロックより遥かに古く、太古からの星の波動を受け続けている聖なる地層が日本にはあるではないか。
 超感覚的知覚能力や霊能力は、文明化される以前のアボリジニのような原住民だけによって保たれているのではない。世界中の超能力者たちは、日本という固有な土地のみに存在する、より繊細な波動に触れることで、彼ら自身の能力をさらに高めることができるのではないか?
 サイキックな能力を持つ人々がどうであれ、まずは一般の日本人が、「日本こそが太古の初発の国であり、世界の中心の国であり、愛の国であること」 を自覚しなければならない。
 そう自覚して 「世界の中心で愛を叫び」、日本が世界を救うのである。

 

<了>
 

 

  呉善花 (おそんふぁ)

     『なぜ「日本人がブランド価値」なのか』

     『韓国人から見た北朝鮮』

     『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』

     『日本人て、なんですか?』 呉善花・竹田恒泰

     『帰化日本人』  黄文雄・呉善花・石平

     『「反日」を捨てる韓国』

     『日本オリジナルへの旅』

     「日本」 を理解する

     『「脱亜超欧」へ向けて』

     『化粧するアジア』