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 それぞれ台湾・韓国・中国から帰化したお3方の対談集。黄文雄さんは日本に住んで40年、呉善花さんと石平さんは25年ほどになるという。東アジア諸国との比較文化に興味のある人にとっては絶好の書籍だろう。当然のことながら、日本を知るための書籍でもある。2008年11月初版。

 

 

【話し言葉を信じる韓国人】
呉 : 韓国では書かれた言葉よりも話された言葉を信じる傾向が強いんです。「言葉さえうまければ千両の借金も返す」 ということわざがあるようにね。もちろん、日本でいう言霊信仰とは全然違うものです。(p.27)
 なら、詐欺が横行するのではないか、と思ったら事実その通りの記述があった。
 韓国の道徳は裏ではどうなっているか。その実態のひとつを表しているのが、道徳に反する犯罪が韓国にはとても多いという事実です。なにしろ、韓国の犯罪発生率のトップが詐欺事件なんですね。2000年の数字でいうと詐欺事件の発生率は日本の8倍強、贈収賄事件だと27倍強、横領事件だと33倍強という具合です。(p.119)
 こんな記述を読むと、振り込め詐欺の主体は在日韓国人か? と普通に思えてしまう。
 話術が巧みなものがテレビに登場するから、韓国ではテレビが驚異的な権力を持つという。
 こういった点は、下記の中国の記述と似ている。

 

 

【野蛮な批判こそが “優れている“ とされる中国】
石 : 中国では作文はことのほか重視されます。 ・・・(中略)・・・ 。我々の時代では、作文の教材、模範文とされたのは毛沢東の文章でした。ようするにこれは批判文なんですね。 ・・・(中略)・・・ 。文革時代の批判文の特徴は、高圧的な態度で相手を罵倒するところにあります。きちんと事実を上げて批判するんじゃないんです。威勢のいい言葉でもって、相手の頭のてっぺんから足の爪先までを、完全に圧殺するんです。
 中国の議論というのは、敵が最初からすべて悪いという前提に立ってやるものなんですね。日本のテレビでもよく出てきますが、あの中国政府の外務省のスポークスマンの喋り方、ああいう喋り方が典型的な批判文章のスタイルです。(p.88)
  ・・・(中略)・・・ そういった批判文というか罵倒文が以後もずっと続いていって、いったいどういう人間を生み出したかというと、品格も教養もどうでもいい野蛮な人間です。(p.90)
 反日暴動で日本大使館に石を投げつけていた映像が世界中に配信された後、(名前は忘れてしまったけれど)粗野な人相の外務大臣が 「日本が悪い」 と堂々と発言して、世界中から総スカンをくらってスッカリ反日暴動が沈静化したことがあった。
 日本人や欧米人にとって、あの中国の作為と外務大臣の発言は “呆れた傲慢” なのだけれど、中国人にとっては “学校で習ってきたとおり“ だったわけである。立派に野蛮な凄い国である。

 

 儒教国家(中国も韓国も)はとにかく “現実” を重視する。 “死後の世界” とか “転生” という概念が希薄なので、“真善美” に紐付かない呆れた言論が威勢を振るうのである。
  《参照》  『歴史から消された日本人の美徳』 黄文雄 (青春出版社)
         【日本と中国の道理の違い】
         【中国との違いで日本を再認識すべし(著者)。日本との違いで中国を再認識すべし(私)】

 

 

【韓国の歴史教科書】
呉 : 韓国で今年(2008年)、「韓国近現代史」 の新しい教科書が出ました。まだ学校での採択はありませんが、一般の書店では売っています。かなりの話題になっていますが、これまでの韓国からすれば画期的な本だといえます。 ・・・(中略)・・・ 。
日清戦争から日露戦争へ、日韓併合へという流れも、韓国=善、日本=悪といった倫理的な対立構図ではなく、極めて冷静に、客観的に叙述されています。これまでのような感情的な描き方は見られません。(p.98-99)
 総督府が行った土地改革もこれまでの土地収奪という角度ではなくなっているという。「ほぉ~」 である。
   《参照》   『日韓併合』 崔基鍋 (祥伝社)
           【日帝時代、農民は土地を奪われた?】

 今までの韓国から見ればすごい変化であるとは思うけれど、 『認識台湾』 のように教科書として採択さてようやく正常な近代国家である。そこまでゆかない事には評価に値しない。

 

 

【道徳教育】
黄 : 道徳教育は必要ですが、重要なことは、どういう内容の道徳を教育すべきかということですね。私の考えでは、道徳教育の復活をするよりも、伝統文化を教育する方が、道徳面ではよりよい効果を生みだせると思います。
呉 : 私もそう思います。それで、自分の体験からいうと、道徳教育にはとても危険な面があると思うんです。 ・・・(中略)・・・ 。
 善悪の根本にあるのは宗教性ではないかと思います。キリスト教の文化、日本の神道の文化、儒教の文化、それぞれに善悪観にはかなりの違いがあります。共通に根拠を置ける道徳教育は可能かというと、それぞれの宗教性が違うわけですから、とても難しいと思います。(p.116)
 道徳を学ぶにしても宗教に紐付いたところまで自覚できないと、外国人と接して当惑や摩擦で終わってしまう。だから宗教を自ずから含んでいる伝統文化を学んでおいた方が互いに分かりあえるのである。
 韓国では、道徳とは礼にほかなりません。この礼というのは、形として表わす礼儀のことです。社会の秩序や人間関係を保つための、作法であり、制度であり、儀式であると考えればいいと思います。
 日本ではどうでしょうか。もちろん、日本人も礼にはうるさいですね。しかし多くの日本人は、道徳の本体は内面から自分を律するところにある、というふうに考えていると思います。それを表に現したのが礼だとなるでしょう。(p.116-118)
   《参照》   『悲しい日本人』 田麗玉 たま出版 (その3)
             【デパートの挨拶】
   《参照》   日韓文化比較

 上記の例にある “礼” の場合、韓国では儒教に依拠し、日本では “神道” を基礎にしている。それぞれの宗教的ルーツを切り離したところで “礼” を道徳にしてしまうと、日本人と韓国人は互いにずれたまま分かりあえなくなってしまう。

 

 

【日本人の美意識】
黄 : 神道はどういうところが儒教と違うかといいますと、まず非常に純だということです。実にピュアーな、アニミズムに近い純なる宗教性があります。 ・・・(中略)・・・ 。神道の核心にあるのは、「清き赤き心」 というのがいいかと思います。清き心というのは、汚れのない、純粋な心ですね。赤き心というのは、あるがままの心、うそいつわりのない心、真心ということですね。そういう心のありかたや姿勢を、一番大事にしているのが神道です。
 しかし、残念ながら 「清き赤き心」 だけでは社会生活はやっていけません。やれるとしても、日本でしかやっていけません。外国では通用しない。(p.125-126)

呉 : 清らかで嘘いつわりのない心というのは、道徳的に正しい心というよりも、美しい心として感じ取られます。何が善で何が悪か、何が正義で何が不正義かという道徳の考え以前に、日本には何が美しい心や行動で、何が醜い心や行動かという、美意識を基準にした価値観があります。これは、儒教文化、キリスト教文化、イスラム教文化に見られる、厳しい戒律や規律とはまるで違うものです。
 ですから日本では、戒律や規律を教える道徳教育ではなく、日本人の美意識をもって形成されてきた伝統文化を教えていくことが、一番かなっていると思います。私自身の体験からいっても、これは外国人にも十分通用すると思います。(p.130)
石 : 黄さんがいわれた道徳のベースにある宗教的な情念、日本の神道というのは、まさに美意識から成り立っているんですね。 ・・・(中略)・・・ 。
 これからの日本が伝統的な日本を回復するには、日本的な美意識の感覚を取り戻すことと、日本の神道を教育すること、それから道徳教育をやっていくことだと思います。
呉 : 大賛成です。(p.135-137)
 道徳以前の “美意識” をこのようにキチンと捉えて表現している人々は、日本人の中でもそれほど多くないように思っている。しかし、これこそが日本人の根幹のはずである。
   《参照》   日本が経済成長したその理由は?
             ③ 文化
 上述の呉善花さんの発言の中にある 「私自身の体験から・・・」 とあるのは、日本人が美しいという陶芸品などを自分の部屋に置き、常に眺め触れ接して、日本人の美意識の一端を感覚的に理解しようと努めていたことのはずである。かつて読んだことのある呉善花さんの書籍の中にそう書かれていたのを覚えている。