イメージ 1

 

 真摯な書物。毎日の読書記録に残す程度ではもったいない内容。
 読んでいて印象的だった頁の隅を折り返しておいて、その部分を読書記録にしているのだけれど、この本については、折り返した箇所が多すぎる。かなり削って書かざるをえないが・・・。


【日本と中国の道理の違い】
 こうした中国の道理と道徳軽視の元凶は、儒教に求めることができよう。儒教も善悪の道徳観を持ち、「五倫」や「五常」を説いているが、そこには重大な自立的意識や悟性が欠落している。それは「良心」である。これは仏教が説く過去世、現在世、未来世の観念をついに中国人が受容しなかったことにある。 (p.28)

 中国人は孔子の儒教道徳を自慢する。日本人は孔子の儒教と聞くだけで中国は素晴らしい国だと、勝手に思い込む。日本人には「良心」の欠落した道徳など考えられないから、中国に対して美しくもとんでもない誤解をしているのである。
 中国語には時制がない。現在・過去・未来がないのである。輪廻転生を基底におく仏教的世界観など根付きようもないではないか。つまり自らを律する概念、つまり「良心」という概念が中国の儒教にはない。中国の儒教は、社会の権力者がもたらす、外的、現実的な規制だけである。この違いは心に深く銘記する必要がある。儒教国家、中国・韓国の政治家たちの徹底的な恥知らずな傲慢さは、ここに起因している。
 日本は、神道の基盤上に仏教を取り込みさらに儒教を取り入れた。世界で最も繊細な言語(日本語)で解釈する日本人は、原典よりも秀でた解釈のできる類稀なる民族なのである。


【歴史学者、津田左右吉の慧眼】
 「日本人と支那人とが儒教によって共通の教養を受けているとか、共通の思想を作り出していると考えるのはまったくの迷妄である」(『支那思想と日本』) (p.33)



【儒教で肯定されている“功名心”、しかし、日本人が決して言及しない『論語』の章句】
 中国人がどれほど「名」を重んじるかについては、世界でも類を見ないほどである。儒教は、むしろ名声欲を肯定しており、「君子は世を没するまで名の称せられざることを疾(にく)む」(『論語』 衛霊公編)とまで言っている。 (p.168)

 日本の政財界人が、学びの古典として『論語』の章句を言及することは多いが、流石に、この章句を取り上げて座右の銘にしていると書いていた人はいまだかつていない。教養ある日本人にとって、名誉欲や功名心に連なる心根は「恥ずべきもの」なのである。
 中国人と日本人、同じ儒教、同じ 『論語』 といっても、それぞれに注視しているところは全く違う。

 

【日本人と中国人の違い】
 日本人と中国人の最大の違いは何かというと、私は多くの場合 「誠」 と 「詐」 の民族であると言及してきた。さらに、「おかげさま」 ということばについていうならば、日本人の背景にあるのは天地自然であるが、一君万民体制の中国では、「おかげさま」 の対象は、天意を代表する天子である皇帝に一元化される。 (p.243)

 同じ「おかげさま」でも、日本人においては受け手としての 「謙譲の美徳」 となり、中国人においては施し手としての 「傲岸不遜」 になる。これが中華思想の核となって周辺国家をウンザリさせるのである。

     《参照》   『「逆」読書法』   日下公人  HIRAKU

               【孔子の教訓に感じた素朴な 「なぜ」 の結末】

     《参照》   『驕れる中国 悪夢の履歴書』 黄文雄 (福昌堂) 《後編》

               【君子と小人】

     《参照》   『独走する日本』 日下公人 (PHP)

               【現実が見えなくなっている】

     《参照》   『日本と世界はこうなる』 日下公人 (WAC) 《後編》

               【日本人の物差しでは測れない国・中国】

 

 

【本居宣長】
 江戸期になると、本居宣長は、日本の和歌をはじめとする文芸について、「儒仏による善悪にあずからぬ事」 と論じて、日本には古来 「いにしえ心」、「和心(やまとごころ)」 があると 「古学」 を提唱した。宣長は 「まことの道」 は 「古代の神々の生活の中に形成された習俗」 であるという。 (p.31)

 神道を学んで以来、言霊を通じて 「日本語の特性」 を考えていた私は、結果的に本居宣長の説と同じ処に行き着いていた。


【日本の神々】
 日本の神々の中には、絶対神が存在せず、分業システムによって運営されている神の国が造られたのだ。神々は一神一芸なのであり、この状況下ではどうしても相互依存でやるしかうまくやってゆけない。これが日本の社会の自然の摂理である。 (p.59)

 人間関係に悩むとき、縁を断ち切ることを欲するのか、忍耐して継続することを欲するのか、自分で方向性を定めて、祈願する神社を選ぶべきなのである。日本の神々には個性がある。神社によって解決方法は異なるのである。


【中国の神々】
 日本と違うのは、天上界と地上界において神々が一人ひとりランクつけされることだ。少しでも上位のランクを獲得するために、神仙たちが戦う物語が、かの 『封神演義』 だ。(p.149)

 日本では、唯一、スサノオノミコトが暴れまわるが、八百万の神々同士の合戦はみられない。これは、日本の神々が、「戦わずして勝つ」 という兵法最上の極意をすでに体現しており、さらには 「無為にして化す」 ほのど、高貴な神が日本に座しているからである。
 日本と中国。最初から国家としての霊格が違うのである。このことを知らない愚者達が、何でもかんでも中国の文物を賞賛する。

 

【エコノミック・アニマル】
 私から見ると、日本人は世界的に見て、決して 「エコノミック・アニマル」 という側面が強いわけではない。香港やシンガポールなどの東南アジアの華僑、さらに今日の中国の成金たちには、「飲む、打つ、遊ぶ」 文化しかない。まさにエコノミカルな側面を追求するのみで、民謡や踊りといった 「こころ」 を共有する伝統文化をもたない集団もある。 (p.281)

 中国語と日本語の繊細さの違いが全てである。繊細さのない言語民族に、奥深い文化などありえよう筈もない。著者は、上記の文章を、「高徳ゆえに標的とされたジャパン・バッシング」 という小見出しの章の中で書いている。

 

【中国との違いで日本を再認識すべし(著者)。日本との違いで中国を再認識すべし(私)】
 著者は、「新渡戸稲造の武士道でさえ、儒学思想の呪縛から解放されていない」、と言い、日本と中国の違いを明白にすることで、日本を再認識すべきであるとして、最後に書いている。
 中国は2千年来、儒学の五倫や五常を規範としてきたが、日本武士道精神の核である 「誠」 や 「真」 や 「美」 という意識や、死への覚悟も、名誉心にあたる精神性を中国社会に見出すことができないからである。また、そもそも武士道なる、武将の心構えといった理念が、中国には歴史的に見て、どこにも存在しないのだ。
 第一、五倫、五常は、机上の道徳なのであって、中国社会の現実のなかで、実質的に生きているとはいえないのである。 (p.304)

 日本武士道精神の核である 「誠」 や 「真」 や 「美」という記述を読んで、「真」 「善」 「美」 を想起する。武士道精神にあっては、「善」即ち「誠」のなである。
 さて、これらが何故、中国にはないのか? その答えは、この読書記録の最初の段落で既に書いておいたけれど、アルファ・オメガとして再び書いておこう。
 神道では、「真」、「善」、「美」は魂に蓄積され来世に持ち越せるものとしている。学問に励んで「真」を学び、宗教などに学んで「善」を学び、芸術に勤しんで「美」を学ぶ。これらを積み重ね向上するためにこそ人生があり、輪廻転生に意味があるのである。
 ところで、中国語には時制がない。過去・現在・未来がないのである。つまり、中国語を話す民族において、「真」 「善」 「美」は意味を成さない(本質的な価値を見出せない)のである。故に、ひたすら現実的な利益のために生きるだけのガサツな人間にしかなれないのである。
 「真」 「善」 「美」の日本人が、皮相な中国人を理解できても、皮相な中国人が、「真」 「善」 「美」の日本人を理解できることはありえない、ということである。



<了>

 

  黄文雄・著の読書記録

     『世界から絶賛される日本人』

     『マンガ 中国入門』

     『「中国の終わり」のはじまり』

     『帰化日本人』

     『驕れる中国 悪夢の履歴書』

     『韓国・北朝鮮を永久に黙らせる100問100答』

     『歴史から消された日本人の美徳』