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 タイトル解題は、目次をみればよく分かる。「役に立たない本こそ役に立つ」、「常識をひっくりかえす読み方」などの章が並んでいる。日下さんの数々の著作は、このタイトルに即した読書法を実践しているからこその記述に満ちているので、圧倒的な読者を獲得しているのである。

 

 

【人生反比例法則】
 鹿島先生が書かれたそのエッセイは、「人生反比例法則」 という内容で、男掛けるクルマイコール1だといいます。簡単に言えば、貧弱な男ほど立派なクルマに乗りたがり、立派な男は平気で小さな、見栄えの悪いクルマに乗るということです。・・・中略・・・。これは心理学でいう、補償(コンペンセーション)です。・・・中略・・・。貧弱な男はその自信のなさを隠そう、何か別のもので自信を持ちたいと思うから。いいクルマに乗りたがるということです。(p.39-40)
 至極、ごもっとも。「虎の威を駆るキツネ」 ならぬ 「クルマの威を駆る貧弱男」 である。
 工業高校のOB会にはズラッと外車が並ぶという。普通高校のOB会ではあまり見られない光景らしい。

 

 

【読書とは、著者と読み手の ”割符” を合わせ合う知的ゲーム】
 本を読む場合も、初めから終わりまで読んで、わかったつもりなっているかもしれませんが、じつは勘合貿易のように、著者の教養や知識という ”割符” に読者の理解力という “割符” を合わせて、それがぴったりと合った部分だけが伝わるのです。
 ですから、こちらの教養の程度が低ければ、その程度で理解できることしか伝わりません。力がつけば、理解できる部分も大きくなります。逆に言えば、もし読者の力が上がれば、著者が気がついていないところまで分かるでしょう。(p.76-77)
 同じ本を10数年程度のインターバルをおいて再読した場合、以前はまったく見えていなかったものが見える場合と、以前印象的だったのにまるで冴えない平凡以下の著作に思える場合がある。
 チャンちゃんの場合、前者の代表的な例が 『超真説 日本創世記』  渡部勇王 (廣済堂出版) である。
 なお、読み手が “割符” を増やすのは、なにも読書の積み重ねだけとういわけではない。
 たとえ年齢が若くても、アルバイトでも何でもいいから実体験を多くして “割符” を豊富にすればするほど、読書は面白いものになります。 (p.81)

 

 

【いいたいことが一つも書かれていない著作】
 書物の役割の第一は著者のいわんとすることを読者に伝えることです。ところが、心理学入門といった類の本には、その使命を果たしてないものがひじょうに多いのです。(p.99)
 確かにこういう本は稀に存在する。事実の羅列に終始しているような本があるのである。言いたいことが何一つないのなら本を著す必要などない、と日下さんは書いている。まったく同感。

 

 

【読書の縦糸と横糸】
 一見、関連のなさそうなものでも読んでおくと、やがて縦糸と横糸が絡まって、関連が出てくるのです。(p.140)
 同じ分野の本ばかり読み続けていても、100冊程度読めば、必ずや別の分野へと興味は移る(縦糸から横糸へと遷移する)ものである。そうして、幾つかの縦糸・横糸を辿り続けていると、思わぬ処で別の縦糸の内容に交錯する記述を見出すことは、実にシバシバである。
 この読書記録のブログでも 《参照》 として関連する内容を含んでいる著作をリンクさせているけれど、分野はほとんどバラバラである。

 

 

【逆読書術の ”奥儀” 】
 違う本を読んで重ね合わせ、混ぜ合わせるとき、きっと仕事の役にもたつでしょうし、楽しめるはずです。傍から見れば、わけのわからない乱読といわれるかもしれませんが、しかし、他人の読まないような本、自分で読もうと思わない本を読むというのが逆読書術の ”奥儀” なのです。(p.143)
 自分の読みたいテーマの本だけを選んで読む人というのは、読書経験の浅い人、もしくはものぐさな人である。主要な栄養素ならテーマ選択で得られるだろうけれど、人体に不可欠な必須ミネラルに相当する貴重な内容は、乱読でなければなかなか得られないはず。

 

 

【孔子の教訓に感じた素朴な 「なぜ」 の結末】
 たとえば 「君子は厨房を遠ざく」 です。・・・中略・・・。また、「形正しからざれば食わず」 も疑問でした。
 これらは結局、解決しないまま私の心に残り、ずっとくすぶったままだったのです。あるときある本のたった一行の説明で、長年の疑問がいっきに解決しました。
 それは孔子の一族は何百年ものあいだ、葬儀を専門にする職業集団だったというのです。それで多くのことが納得できました。そもそも孔子は今流に言えば、ずっと官僚になりたいと就職運動をしていました。・・・中略・・・。「君子」 というのは 「立派な人物」 という意味ではなく、「高級官僚たるべき人物は」 という意味だと考えればいいのです。 (p.152)
 この日下さんの記述を読んで、孔子に対する御自身内部での想定ランクがドドッと下がったと感じた人は、それで正常な位置取りができたのである。
 “聖人・孔子の語った君子” という、日本人特有の麗しきベールのこちら側から見る視点を何時までも墨守していると、馬鹿げた美化で中国人を曲解してしまうのです。著者の読書遍歴を通じて、貴重なことが再確認できました。

 

 

【諸国修行の武芸者は、旅費がないのにどうして食べていたか?】
 甲野善紀氏の 『剣の精神誌』 を読んですこしわかりました。・・・中略・・・。その本の中に、江戸時代末に武者修行の旅をした武芸者が明治になってから当時のことをいろいろと話している回顧録が収録されていました。その中で、「手裏剣の下手な者は餓死した」といっているのです。諸国修行のあいだは、手裏剣で鳥を落としたり、ウサギを捕ったりして食事をしていたというので、それならわかると思ったものでした。(p.155)
 これを読んだから思い出したのだけれど、 “芭蕉(だったか西行だっかた・・)は忍者だった“ という論述を読んだことがあるような記憶がある。
 忍者を ” 手裏剣の使い手“ と狭く定義するだけで、かなり偏狭ではあるけれど芭蕉(あるいは西行)忍者論は成り立つだろう。

 

 

【複眼的なものの見方を養うためには・・・】
 複眼的なものの見方、多様な価値観を持ちたいと思ったら、やはり活字を読む以外にありません。(p.163)
 同じテーマの書籍を3冊読むなら、3冊とも必ずや異なった視点で記述されているものである。仮に結論が同じであったとしても、前提や、そこから結論に至る経路が全く同じということはまずあり得ない。
 僅かなりとも読書経験があるなら、このようなことに気付けない人など、一人としていないはずである。

<了>