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 ノーベル賞式典場所であるストックフォルムで爆弾テロがあったとか。ノーベル平和賞に関する驕れる中国の作為であろうと推測してしまうから、再び中国関連の書籍を読んでみた。
 中国人のDNAに潜むものをきちんと見極めておかなければ、日本及び世界は、将来とんでもないことになるかもしれない。

 

 

【中国の国民性の根底を見極めよ】
 多少海外との交流が生まれ、都会の若者が日本の文化や電化製品に興味を示そうとも、その国民性の根底には日本人の想像を絶するような 「中華思想」 と 「奴隷根性」 の文化的DNAが埋め込まれている。
 実のところ、戦後の日本人ほど中国という国を知らない民族はいない、というのが、私の持論である。日本人固有の 「誠」 を尊ぶ国民性と、戦後民主主義教育が、現代の日本人から中国の現実を見る目を奪ってしまった。(p.5)
 中国に対して最も無知なのが現代で、最もよく知っていたのが戦時中の日本だったと書かれている。
 日本人の対中国認識の是正は、著者が、常々口を酸っぱくして語ってくれていることであるけれど、再度、書き出しておこうと思う。

 

 

【対極的な日本と中国】
 国交はとうの昔に回復し、経済的にも結びつきを強めているはずの日中間の相互理解は、深まるどころか混迷の一途をたどっているとしか思えないだろう。
 なぜ、このような事態が続いてしまうのか。一言でいえば、双方の国民性、あるいは民族性が正反対だからである。(p.20)
 著者は、他の著作でも、 “ 「誠」 の日本、 「詐」 の中国” という対比で分かりやすく指摘しているけれど、日本人は、どうしても 「誠」 の意識で中国を考えようとするから、いいように貪り尽くされてしまう。
            【中国との違いで日本を再認識すべし(著者)。日本との違いで中国を再認識すべし(私)】
 中国人にしてみれば、日本人の 「誠実」 とか 「正直」 という教えは、子供に 「カモになれ」 と教えているに等しい。(p.78)
 このような事例が、たくさん記述されているのが本書である。

 

 

【 「美化」 と 「醜化」 】
 中国人が日本人を見る場合は、つねに真逆の偏向を加えてきた。「美化」 ではなく 「醜化」、つまり日本人像をより醜く歪めてしまうのが中国人なのだ。(p.22)
 事実も数字もご随意に改ざんしてしまう南京事件の事例などが典型的なものだけれど、もっと庶民的な言語感覚においても 「醜化」 は行われている。その例が、下記の 「チンピラ日本」 である。
 「大」 が好きだから、自分たちは 「大中華民族」。そして日本については 「小日本」 と呼ぶ。相手を軽蔑する場合に大の代わりに小を使う。大は良いことで、小は悪いことである。
  ・・・(中略)・・・ 中国で一般的に 「小人」 といえば、これは 「チンピラ」 みたいな意味である。(p.68)
 子どもを愛称で呼ぶときは 「小○○」 と言うけれど、この場合は 「○○ちゃん」 のような意味になる。
 しかし、大人や他国に対して 「小○○」 は明らかな侮蔑である。
 「小日本」は、「シャオリーペン」と発音される。

 

 

【中国に “人類への貢献” という認識はない】
 中国は有史以来の機密主義国家である。為政者にかぎらず、民間レベルでも 「秘密」 には事欠かない。その代表的なものが漢方薬の秘方主義である。 ・・・(中略)・・・ 医学というのは人類に貢献するものだから、特許などで自己の利益を確保するにせよ、最終的には研究成果をなるべく多くの人々に提供することを考えるのが常識だが、中国はそうではない。(p.25)
 今年(2010年)ノーベル化学賞を受賞した日本人科学者(根岸栄一氏 と 鈴木章―氏)のお二人は、炭素を結合させるカップリング技術を開発し、それを人類と社会の発展のために役立てようと、あえて特許を申請しなかった。これによって、今日の液晶など実に多くの科学技術が進化し、世界中の多くの企業および人々が恩恵を受けているのである。
 中国は、そんな日本人が開発した技術を利用し、私利私欲を満たすのみである。このような民族が世界の中心に出たら、それこそ世界は真っ逆さまに暗黒化へと向かうことだろう。

 

 

【魯迅が書いていること】
 魯迅は、中国の伝統社会を風刺した 「灯火漫筆」 のなかで次のように書いている。
  ・・・(中略)・・・ 。
「いわゆる中国文明というのは、じつは、ただ有閑階級の享楽のために用意された饗宴である。いわゆる中国文明というのは、実はただこの人肉の饗宴のために用意された厨房にすぎない。知らずに称賛するのは、まだ恕されるべきものであって、知って称賛するならば、このやからは永遠に呪われるべきものだ」
 さらに魯迅は 「われわれはきわめて奴隷になりやすい。しかも奴隷になっても、案外とそれを喜ぶ」 「乱世の人は太平の犬に如かず」 と嘆きながら、「中国人は人を人と思わない」、場合によっては 「牛馬以下」 だと指摘する。(p.43)
 観光ツアー以外で、自分の足で郊外を回ったことのある人なら、中国人の人を人と思わぬ驚嘆すべき場面に、何度か遭遇しているだろうから、魯迅のこの記述に首肯するはずである。
 “有閑階級の享楽のために用意された饗宴” という言葉が印象的である。「皇帝(支配者)と奴隷(愚民)によって構成される国」 ということである。
   《参照》   『あと3年で、世界は江戸になる!』 日下公人 ビジネス社
             【自分で働く日本人、他人を働かせる中国人】

 中国人には 「奴隷になりたがる性がある」 という意味の記述に、「えぇ!」 と思うけれど、
 漢民族がいちばん幸せだったのは、じつは清の時代であろう。いちばん不幸な時代は、明の時代である。
  ・・・(中略)・・・ 。
 中国史上最悪の時代が明である。宮廷内では廷臣たち、文武百官にいたるまでが、言葉遣いを誤るなどして皇帝の逆鱗に触れただけで杖刑。棒で肉体を打つこの刑罰で死んでしまう者はかなりの数に上がった。 ・・・(中略)・・・ 。
 そのあと清の時代になると、中国は歴代王朝のなかでも、もっとも幸せな時代になった。康熙、雍正、乾隆帝の約140年間で人口が10倍以上に増えた。そして始めて人頭税が減免になった。税金をとらず、経済、政治面で汚職なども少なくなって、社会も安定した。 ・・・(中略)・・・ 。満州人の奴隷になってはじめて中国人はいちばん幸福な時代を迎えたのだ。(p.70-71)
 つまり、漢民族が支配者なら奴隷でなくとも生活は苛烈になり、漢民族以外なら奴隷という地位であれ幸せになれる、ということ。
 実のところ、中国人は異民族を熱烈歓迎する民族なのだ。日中戦争では、日本軍が入城するたびに日の丸旗を振っていたのである。だから、中国人とつき合ううえで、その奴隷根性を想定しながら取り組めば、たいがい成功する。そして実のところ、中国人に勝つには、このやり方しかないと言っても過言ではない。(p.71)
 内に行き詰まりを抱えていれば、外圧を利用したがるのは中国人も日本人も同じなのであろうけれど、中国人の場合は、漢民族が支配者の場合に内政が苛烈なあまり、生き延びる上での生活の知恵として奴隷根性が浮かび上がるということなのだろう。
 誠実な日本人は、著者おすすめの 「奴隷根性を利用して」 という手段を好まないだろう。ただ、日本は正当な手段で中国人に日本文化を知ってもらい、それで中国政府の力が漸次無化することを期するだけだろう。文化力 vs 権力(軍事力) という風変わりな構図で、日中関係は辛うじて均衡を維持することになる。
 ところが、二国間で問題が生じると、中国政府は、中国人の日本観光を止めさせる。力で文化を封ずる前近代的手法に戻ってゆく。中国は依然として危険な国である。

 

 

【奴隷根性の中国人との付き合い方】
 経営がうまくゆかない企業で、武術の名人を工場のマネージャーに据えたら上手く行くようになった、という事例が記述されている。そして、
 逆に、 ・・・(中略)・・・ 日本流に意見を尊重しよう、腹を割って話し合おうという方針を掲げた経営者達は、対中ビジネスでことごとく煮え湯を飲まされる想いをしている。
 ゆえに、中国との交渉事は弱みを見られたらダメなのである。中国で成功しようと思うなら、奴隷根性を積極的に利用し、ワンマン経営で押さえるに越したことはない、というのが、台湾関係者や経営で成功した人の一般的な見解である。
 対等な人間として人格を認知されていると思っていない 「奴隷根性の中国人」 を制するのに有効なのは、 “話し合い” ではなく “力” である、というのである。
 こういうのを読んでしまうと、日本人としては元も子もない感じであるけれど、中国人というのは日本人とは全然違う民族であるどころか、正反対の民族であることを、まずはきちんと認識する。
 その上で、腹をくくって中国人に合わせた付き合い方をするか、中国との深い付き合いは止めて、日本人の 「至誠」 を理解できる国とだけ付き合うことにするか、を選択すればいいのだろう。
 遠からず世界は、 「至誠」 を旨とする公正な態度を崩さない日本を評価するようになるはずである。中国のやり方がこのまま続くなら、間違いなく世界は混乱に落とし入れられることになるのである。