《前編》 より

 

【民の字源は・・・】
 「民」 の字源を探っていくと、じつは中国の社会構造に深く根差した文字だと言うことが分かる。「民」 という字は中国の奴隷制と切っても切れない関係があり、 ・・・(中略)・・・ じつは、奴隷が逃げられないように目に針を刺して潰し、見えないようにした、というのが、「民」 の字源なのである。(p.53)
 なるほど。
 

 

【奴隷の価値の推移】
 古代中国の社会構造に関しては、考古学的にも研究が進んでいる。まず殷朝の時代にはすでに奴隷階級があったことがはっきりしている。(p.53)
 中国の奴隷価値は戦国時代に馬に追いつき、追い越した。ところが、その後時代は逆行するように、ふたたび奴隷の価値が下がってゆく。(p.54)
 現在の中国の発展も、主なところは日本企業が作った工作機械によって牽引されているから、人民という奴隷の価値はそれほど上がることはない。

 

 

【人間不信社会】
 およそ中国の 「学」 といわれるものには、一つの共通点がある。それはあらゆる古典がすべからく人間不信の 「学」 だということだ。兵法にかぎらず、 『韓非子』 や 『戦国策』 なども人間不信の社会をどのように克服してゆくかを教える。 ・・・(中略)・・・ 。
 今でもよく誤解されていることだが、日本では、華僑の企業は家族企業だと一般的に信じられている。しかし、華僑の経営哲学が家族主義だなどというのは見当はずれである。華僑の事業ほど、血族の争いがすごいものはない。(p.76)
 日本人が思いつく中国古典といえば、孔子関連のものばかり。しかし、中国史において孔子の思想が為政者によって実用的に用いられたという史実はない。また、「毛利三本の矢」 の譬えを中国人に適応させて考えることも、とんでもない誤りである。
 日本人の勝手な 「美化」 的な思い込みは、まったく反対にして再認識すべきである。
   《参照》   『崩壊する中国 逃げ遅れる日本』 宮崎正弘 (KKベストセラーズ)
              【中華伝統商法】

 

 

【中国人の文化的DNA:騙しの文化】
 今でも中国で最も流行っている言葉に、「良心のある人間は社会から孤立する(あるいは孤立させられる)」 というものがある。真面目な人間はやっていけないのである。そういう厳しい日常生活で培われ、長い歴史を積み重ねてたどりついたのが、 ・・・(中略)・・・ 中国の一つの文化、「騙(ペン)」(たぶらかす)の文化なのである。日本ではあまり紹介されてこなかった言葉だが、騙し騙されるということが、文化的DNAのレベルまでインプットされているのが中国人なのだ。(p.92)
 このような 「騙し」 はDNAレベルものもだから、中国では誰でも 「騙し」 に対する免疫が出来ている。だから、日本のような 「オレオレ詐欺」 や 「振り込め詐欺」 などの被害は生じようがない。
 中国人にとって詐欺は非常に生産的な仕事なのである。なぜなら詐欺師は人をだますけれど、本人にとっては財を得るための一つの手段として肯定されるからである。だから、騙す技術についての研究書は台湾・中国の出版市場にあふれていて、本屋には兵法書などの 「騙」 の関連書が多く見られる。
 残念なことに、日本の研究者、とくに中国専門家で詐術を真剣に研究している人は、たぶんいないと思う。研究したらバカにされて、学者としてやっていけない。しかし、中国では違う。「騙」 研究は市場性をもっているから、やっていけるのだ。(p.246)

   《参照》   『中国人の秘密』 ルー・ウェイ (HIRA-TAI BOOKS)

             【中国人にとっての “頭のいい人” 】

 

【 『厚黒学』 】
 いかにしてずうずうしく、腹黒くなるか。日本人の感覚では、とても真面目に研究するようなテーマではないが、中国では清末に李宗吾という学者が 『厚黒学』 という有名な本を書いている。中国ではいまなお売れるロング・ベストセラーであり、台湾や香港でもそういう 「学」 の定番として今でも出版されている。しかし日本では、文庫を含め、解説までついた日本語訳が2,3種類あるが、どれも売れていない。
 なぜ、中国では 「ずうずうしく、腹黒く」 なることを勉強するハウツーものが売れて、日本では売れないか。やはり、そこに中国と日本の文化の壁があるためではないかと思う。(p.154)
 文化の壁というより、その基礎としての精神的・霊的次元の差だろう。
 日本人の多くは、ウンチを美味しそうに食べている動物になりたいとは思わないのである。

 

 

【中国人が守る “約束の範囲” 】
 中国人は ・・・(中略)・・・ 約束が効く、効かないという半径(範囲)があるのである。(p.100)
 範囲を定める因子は、専ら “利益” である。日中で合弁事業を立ち上げても、私欲を満たすだけの利益がなければ平気で裏切る。中国に進出した中小企業が、中国人の利益次第の約束に、どれほど騙され続けてきたことか。
 日本の小学校の教科書にある 『走れメロス』 のような話は、恐らく大方の中国人にとって、馬鹿げた話なのである。

 

 

【中国人の行動を動機づけるもの】
 「利」 以外に、中国人の行動を動機づけるものは何かというと、じつは非常に少ない。たとえば面子を守るとか、虚栄心を満足させるといった動機づけもあるにはあるけれども、それらは非常に弱いのである。(p.110)
   《参照》   『中国人の秘密』 ルー・ウェイ (HIRA-TAI BOOKS)
             【 “素直さ” よりも “面子” 】

 中国文化に関して、面子の重要性を語った記述は比較的多いけれど、面子の基底もおそらくは 「利」 なのである。中国人は、日本人のように精神性を重視しない。中国には、日本の武士道や大和魂に相当する概念など無いのである。ということは、「中国人は面子を重んじる」 と考えてしまうのは、日本人的に傾いた、もっと言えば偏向した解釈なのである。

 

 

【神を生まなかった中国】
 中国人の信仰心は 「鬼」 までにとどまって、「神」 にまでにはいたらなかったのではないか。要するに 「神」(全能神)は生まれなかったのだ。しかし仏教が発祥したインドにもヒンドゥー教の神々が生まれたし、キリスト教にもイスラム教にも神がいるのに、なぜ中国に神が生まれなかったのか、今も中国文化史上、最大の謎の一つとして探求されている。
 ただ、「神」 が生まれなかった理由はいくつか考えられる。私の考えでは、中国人は非常に世俗化した民族だったために、「神」 は憧れの対象になりながらも、「神」 とはいったいどういうものなのかという想像が深まらなかったのだ。しかし、永遠の存在、超自然的な力への憧れは中国人にもある。「神」 の代わりに、生への貪欲さ、不老長寿の夢をみたすものとして中国人が到達したのが 「仙人」 の思想である。(p.116)
 この問題に関して、身も蓋もない結論を書いてしまえば、中国大陸には、高次元へと通ずる波動(神霊)界が降りていないからである。
 だから、中国人は非常に世俗化した民族でしかなく、騙し騙される社会の中で、生き残るための 「利」 だけが人生の全てであって、自己中心的な生き方が当然になる。それに何ら疑問をもたない。痩せた土地に豊かな作物がならないように、中国大陸に育つのはその程度の民族なのである。
 中国人が憧れる 「仙人」 が住する神仙界は、日本に降りている神界と比較すると、非常に肉体次元に近い世界なのである。

 

 

【中国の儒教文化】
 儒教はすべてを倫理道徳に一元化する。要するに倫理道徳による 「勧善懲悪」 を求めるわけである。ところが、「勧善懲悪」 というのは外的強制にほかならない。宗教が人間の心や信仰から出てくるものであるのに対し、外から善を強制することによって中国人から良心を奪ったのが儒教文化だと考えればよい。(p.125)
 中国とそこから生じた古典を褒めそやしてきた日本人の学者は、まさに机上の空論で中国を 「美化」 してきたのである。
 中国の古典は、日本人によって解釈されてこそ、真に内在する “善” が輝きだしたのである。世界中のあらゆる文物は日本に到達することで “出藍の誉れ” となるのである。それは日本の次元界が最も高貴だからである。
 中国の思想家たちが自らの思想を説き明かすために駆使した道理は、実のところ一般の中国人にはまるで通用しないのである。「話せばわかる」などと、決して思ってはならない。中国人と 「わかり合える」 のは、「理」 ではなく 「利」 が通った時だけである。(p.157)

 

 

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