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 数多くの日本人が紹介されている。ウェキペディアなどですぐに調べることができるけれど、書籍にはインターネット上では知ることのできないことがたくさん書かれている。2011年12月初版。

 

 

【ヘレン・ケラーが目標とした日本人】
 彼女は1937年4月26日、来日した際の講演で、次のように語っている。
「私が幼い時のことですが、母は私に 『塙保己一先生はあなたの人生の目標になる方ですよ』 とよく話してくれたものです。日本には幼くして目が全く見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙先生という方がいたと教えられました。それを聞いて、私は励まされて、一生懸命勉強しました」(堺正一著『塙保己一とともに』はる書房)(p.11)
 19世紀のアメリカ人が、日本の江戸時代の学者のことを知っていたということに、ちょっと驚く。でも、調べてみたら、生きていた時代は、そんなに違っていない。ヘレン・ケラー(1880~1968)、塙保己一(1746~1821)
    《参照》   『超「右脳人間」塾』 七田眞 三笠書房
             【塙保己一と般若心経】

 

 

【山田寅次郎】
 「この間、両国の外交関係の正式樹立を支持する人々は両国の友好の進展に努めた。なかでも日本側では、第一に山田寅次郎の名を挙げなければならない、山田は博愛主義の人で、エルトゥールル号の乗組員の遭難義捐金を持ってトルコに渡り、その後、長期間イスタンブールに滞在し、また日本からトルコ皇帝アブデュルハミト2世への贈り物を運んだ人物である」    駐日トルコ特命全権大使ウムット・アルク  (p.30)
 エルトゥールル号に関しては下記。
   《参照》   『救出 日本・トルコ友情のドラマ』 木暮正夫 (アリス館)
 

 

【ビルマ独立の先頭に立った雷帝】
 鈴木敬司司令官は、ビルマ独立義勇軍(BIA)を率いてビルマに攻め込む際、アウン・サンの提案で、純白のビルマの民族服(ロンジー姿)で白馬に跨り、ビルマの民衆の前に現れた。
 これはビルマの伝説によるもので、イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつか必ず「雷帝」(ボモージョ)となり、白馬に跨って東方からやってきてイギリスの植民地支配からビルマを解放してくれるという「ボモージョ伝説」を演出したものである。
 民衆が義勇軍を目にしたとき、歓喜の声でこれを迎え、1942年3月25日、義勇軍は首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させた。そのとき、BIAのメンバーは4万人にも膨れ上がっていた。(p.66)
 日本の敗戦により鈴木は戦犯として裁判にかけられそうになったけれど、アウン・サンの猛反対で釈放されたという。
 81年にはビルマ最高の栄誉である「オン・サンの旗」勲章を鈴木らかつての南機関のメンバー7人に対し贈っている。(p.68)

 

 

【伊沢修二と台湾の近代化教育】
 台湾に初めて実業教育と国民教育を施行したのは伊沢修二である。台湾近代教育の最大の功労者として知られている。彼は、後藤新平を除けば、現代台湾の年配者にもっともよく知られている日本人の一人である。(p.205)
 かつて読んだ台湾関連の本の中にこの方のことも書かれていたんだろうけど、記憶に残っていなかった。覚えておこうとおもって書き出しておいた。
 近代国家の条件の一つとして言語の統一問題がある。日本統治下の日本語教育というと、すぐに悪の象徴のようにいわれるが、台湾では日本という異文化の影響により日本語という共通語を得て、近代国家に生まれ変わることができたというのが正しい歴史認識だろう。(p.210)
 日本統治以前は、互いにほとんど共通性のないエスニックグループが狭い島のなかで区域を分けて生活していたのだという。
 台湾人にとって日本語教育とは、社会科学や自然科学などの近代科学への開眼や近代概念をもたらしてくれたツールであった。言語の成熟度は文化水準そのものである。明治以降、西欧近代化概念を取り入れてきた日本語がなければ、台湾住民は近代化されなかったであろう。(p.211)

 

 

【台湾の上下水道を作ったバルトンと浜野弥四郎】
 東京帝大に土木工講師として招聘されていたイギリス人のバルトン(William K. Burton)は、台湾総督府の衛生顧問であった後藤新平に要請されて渡台した。彼の弟子の一人として台湾についてきたのが浜野弥四郎さん。
 バルトンさんはマラリアに罹ってしまい活躍できたのは3年のみ。43歳の若さで急逝してしまった。その後の工事は180人の大部隊を率いていた主任技師の浜野さんが引き継いだ。
 台北の鉄筋コンクリートの上下水道系統は、東京や名古屋よりも早く建設されているから驚きである。
 台湾の中学2年生の教科書では、浜野らの行った上下水道敷設について、次のように教えている。

 「(総督府は)日本統治のはじめ、水道を敷設して、都市住民にきれいな飲料水を供給し、都市の地下排水工事を行った」
 現在、台湾台南県山上郷には、浜野弥四郎の胸像が設けられている。戦時中に胸像は供出され、長い間その代わりに「飲水思源」と彫られた石柱が載せられていたが、2005年、台湾人によって復元された。(p.95)
 大規模な農業用水路を作った八田與一さんのことは比較的よく知られているけれど、バルトンさんと浜野さんの話はそれほど知られていないと思ったから書き出しておいた。
 

 

【農業用水路を作った八田與一】
 着工から10年の試練を経て、1930年に(烏山頭)ダムは完成した。堰堤は長さ1273m、高さ56mで水路は1万6000キロにもおよんだ。水路の長さは戦後作られた日本最大の愛知用水路の13倍、中国人が誇る万里の長城の6倍にもなる。アジア最大のダムであり、世界でも第3位の規模だった。総工費は5348万円余りだった。工事関係者の犠牲者は134人、そのうち41人が日本人である。(p.100-101)
 

 

【台湾を人の住める島に変えた人】
 台湾には、「十去六死三留一回顧」という「渡台悲歌」がある、外から台湾という「荒蕪の島」に渡ったら、10人のうち6人が死ぬ、3人だけ生き残って1人は戻っていくという意味である。(p.117)
 そんな島で医療教育に専念した人々が少なからずいた。その中でも、
 堀内次雄(台湾医学専門学校)校長は50年にわたり医師育成、医療に生涯を捧げた台湾医学会の「恩師」である。(p.118)
 台湾人の平均寿命は30歳から一挙に60歳まで延びた。脅威の大変貌の時代だった。堀内はその時代を生き抜いた貴重な歴史の証人である。
 台北帝大教授で、後に大阪大学名誉教授になった森下薫は「台湾の医学史の中で終始主役を演じていた堀内先生を取り上げなければ、台湾医学史の記述は成り立たない」と絶賛している。
 堀内校長は仕事熱心で東奔西走しているにもかかわらず、あの時代の軍人と同じように貧乏暮しをしていた。その様子を見るにみかねた台湾医学界は、恩師のために戦時中に金を集めた。そしてその金で1941年に住宅一軒を購入して贈与したのである。しかし、それも戦後になると注進してきた国民党政府に「敵の資産」という名目で没収されてしまった。(p.120)
 終戦後、帰国する堀内先生のために台湾人開業医たちが集めた餞別は、現在の金額に換算すれば3億円相当だったという。

 

 

【野口遵】
 野口は特許ビジネスモデルを確立した最初の日本人実業家として、朝鮮において巨大コンツェルン建設を志し、満州、海南島へ企業拡大を目指した、こうして野口は「電気化学工業の父」「朝鮮半島の事業王」などと称えられるようになった。 (p.127)
   《参照》   『日韓併合』 崔基鍋 (祥伝社)
             【台湾の八田與一、そして、朝鮮の野口遵】

 

 他に、この本の中で取り上げられていて、たまたまこの読書記録の中にある人。
   《参照》   『日韓皇室秘話 李方子妃』 渡部みどり (読売新聞社)
   《参照》   『日本のこころ』 黒瀬曻次郎 致知出版
             【樋口季一郎氏と安江仙江氏】

 

 

<了>