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 呉善花さんの著作を図書館で見つけたので、久々に読んでみた。本書の主旨は、『「脱亜超欧」へ向けて』 など10年以上前に書かれた本の中に記述されていることだけれど、前半に記述されている岡倉天心の著作からの引用は、日本文化を理解する上で大いに役立つだろう。2016年12月初版。

 

 

【「恥の文化」と「文化的単一性」】
 日本では、「集団の幸福は個人の幸福よりもはるかに重く賞賛されます」。ルース・ベネヂィクトの日本文化論(『菊と刀』)に触れて、日本の「恥の文化」では、「グループから承認されなかったり、追放されたりすることを恐れます」。そのため、「服装、態度、行動、自己表現などの文化的単一性への強固な感覚があります」といっています。(p.5)
 「恥の文化」と「文化的単一性」は不可分であるといっているのだけれど、人・物・情報の交流が加速している今日では、必然的に、日本人の「文化的単一性」は崩れてくるのだし、それにつれて「恥の文化」も次第に希薄になってゆくだろう。
 都内のビジネス環境で長年生きてきたチャンちゃんは、地方の実家がある「区」の決め事が、時流に合わなくなっている昔の制度利権を前例踏襲という盲目的慣習にしたがって、議論を排除するという露骨さで貫徹されているのを知って、区費の支払いを止めることにした。
 昔の「区」には美意識や良識はあっただろうけれど、今日の「区」は民主主義とは名ばかりの単なる愚劣悪徳維持集団である。今日の日本人の「文化的単一性」は、換骨奪胎された腐敗集団の巣窟母体となって、日本の発展を阻んでいることの方が多いだろう。
 「恥の文化」をいうなら、悪徳に満ちた今日の日本の腐敗集団に対して、指弾すらできないような軟弱な精神しかもたない日本人の「文化的単一性」と関連付けるべきである。
 今、日本のみならず世界は大きく変貌を遂げようとしている。そういうエポックな時代である。このような時代、人と違うことを恐れない個人が陸続と輩出しなければ、日本社会は全滅と言う憂き目に遭うだけである。
   《参照》  『スタンフォードの未来を創造する授業』 清川忠康 (総合法令) 《前編》
              【“異質な”者たちが集ってこそ生まれるイノベーション】

 

 

【非イデオロギー国家】
 日本の社会で重要視される原則は、イデオロギー的なものではなく、社会生活上のルールだといえます。人としてのあるべき道理や心情の表し方、通わせ方についての、習慣的な制度・形式です。日本の社会では、そこを基準にして、外から入ってきたイデオロギー的なものを必要に応じて採り入れ利用します。(p.39)
 日本は、鎖国していた時代もあったけれど、総じて諸外国からのイデオロギー流入を阻止することなく、わけ隔てなく文化・文物を取り入れ、日本人に合った形に変容させた上で利用してきた。
 流入を阻止したのは、孟子の易性革命思想くらいだろう。
   《参照》  日本文化講座 ① 【 七福神 】
             □□□ 例外 □□□
 日本は、イデオロギーを軸とすることなく、諸個人・諸集団が相互に関係し合っていくことができる、世界でも稀有な非イデオロギー国家です。(p.39-40)
 経験主義か知性万能主義(理想主義)かという問題提起で、英国は、知性万能主義によるイデオロギーや理想主義は損失が大きいということを経験的に知っていたという内容の、渡部昇一先生の著作を思い出す。
   《参照》  『日本史の法則』 渡部昇一 (詳伝社)
            【西欧における、 知性万能主義 VS 経験主義 】

 複雑怪奇が常態である現実の視点から見た場合、イデオロギーや理想主義は極度に単純化されていると言わざるを得ない。ゆえに、これをそのまま導入した場合、想定外の事態を引き起こすというデメリットを伴うもの。西洋史上に現れたイデオロギーや理想主義は多くの流血を伴ったのである。
 日本人が、イデオロギーや理想主義をそのまま取り入れなかったのは、経験主義を基盤とする日本民族の文化的叡智があったから、という見解はありうるけれど、最も大きな要因は、海洋と言う防波堤によって、多量な人的流入を伴うイデオロギーや理想主義の直撃からは守られていた、という地理的要因である。

 

 

【「日本人には、創造性がない、模倣ばっかである」という馬鹿げた戯言】
 外国の文化を受け入れることでは、日本は世界一積極的です。そのためなのか、日本文化は創造性に乏しい模倣文化だと、いまだにいわれることがあります。これは外国人だけではなく、日本人みずからいうことも少なくありません。(p.19)
 「日本人には、創造性がない、模倣ばっかである」と思っている人は多いかもしれないけれど、そんなのは事実無根である。下記リンクを読めば、さまざま文物を積極的に受け入れるという文化的下地がなければ、高度な創造など発揮できないことはよくわかるだろう。極東の島国・日本は、「世界文化が流入する倉庫」ともいうべき地理的環境にあった国である。
   《参照》  『天才論』 茂木健一郎 (朝日新聞社)
           【総合的な知性】
           【創造性】
 そして、日本人は、報酬などとは全く無関係に、多くの人民が高い文化性、高い技能を保ちつつ職業に励んできたという明白な史実がある。
   《参照》  『モチベーション3.0』 ダニエル・ピンク (講談社文庫) 《前編》
           【創造性喚起において、報酬は逆効果】

 受け入れたものを繊細な感性で完成させてゆく民族は、日本人以外にない。
 こういったことの最終的根拠は、日本神霊界の独自性に起源があるのである。
   《参照》  『大創運』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》
           【日本神霊界】

 このような霊徳によっている日本文化の実例を、岡倉天心は以下のように記述しているらしい。

 

 

【岡倉天心がいう日本文化の核】
 天心がいう「原始芸術の根源的精神」というのは、中国・インドに典型的な農耕アジア文明がはじまる以前の、自然採集・狩猟生活世界、つまり縄文時代の生活世界の精神性にほかなりません。いまだ自然と人間の間にはっきりとした区別意識がなく、自然との一体化感覚のうちに生きていた時代の人間の心を意味しています。
 天心はこの心の働きが、「支那建築の急勾配の屋根を、奈良の春日に見られる春日式の優美な曲線をもって加減した」り(奈良時代)、「藤原期の創作に、その特有の女性的な洗練さを負わせた」り(平安時代)、「厳粛な足利期の芸術に、剣の精神の純潔さを刻印した」(室町時代)といっています。
 この心の働きは以降も、「あたかもうずたかく積んだ落ち葉の下を行く流れのように」、ずっと日本の歴史の底を流れ続けてきた、と天心はいいます。そしてこの流れは「今なお時おりその輝きを現しつつ、おのれをおおい隠していく草木を養っている」と述べています。(p.27-28)
 「原始芸術の根源的精神」が日本文化の根底に横たわっている、といっている。つまり、「原始芸術の根源的精神」は、日本文化の核であり始点(α=アルファ)であるということだろう。
 結局のところ天心に従えば、大陸に発生したアジアの諸文化は、大陸文化として高度な発達を終えていずれも衰退していったが、日本では大陸文化発生以前の精神性を原動力とし得たことで、大陸の限界を超えた別の次元で、新たにいっそう高度な発展を展開していったということになります。(p.35)

 

 

【日本(美術)の独自性】
 天心の文明観では、そこに「精神による物質の征服」「物質性の束縛からの精神の自由」という文明化の神髄があるのです。

 「奈良時代の美術は壮麗であり、平安時代の美術は優美だが、比較できるものは外国にもある。たとえば天平期の美術はギリシャにも比較できるものがある。しかしながら、室町時代の雪村、雪舟の作品と比較できるものは外国にはまったくない。そして、これらの作品を生み出した室町期の思想は、今日(近代化の日本)をも支配している」(筆者要約)

 天心のいう雪村、雪舟に代表される美術感覚は、日本に広い裾野をもつ茶道、華道、庭などの文化にまで拡張することができるものでしょう。外国に比較できるものがない日本美術の独自性といえば、確かにその辺にあると感じられます。その精神性の特徴は「わび」であり、花鳥風月との一体化の境地であるいえるでしょう。(p.31-32)
 精神と物質といった場合、周波数が高いのはいうまでもなく精神。天心は、「高い精神性を感じられるものは日本美術だけである」と言いたかったのだろう。
 物に溢れた世界で生きている現代人の多くは、「雪村や雪舟の作品なんて、最高につまんない」と言いそうな気がするけれど、それは鑑賞者(多くの現代人)の周波数が低くなってしまっているからである。
 天心は、花鳥風月との一体化によって、時空を超えた世界を観ていたはずである。そして、その世界へ向かう過程をも捉えて、当時の日本人はその精神性を「わび・さび」と表現していたのだろう。
   《参照》  『日本が教えてくれるホスピタリティーの神髄』 マルコム・トンプソン (祥伝社) 《後編》
            【私が感じた 「わびさび」 】
   《参照》  『美しい日本語の風景』 中西進 淡交社
            【わび:わびる】
            【さび:さびる】
 「わび・さび」という表現の中で、日本人が希求する“魂の清冽さ”は、現実世界(物質世界)にはなく、死後の世界(精神世界)にしかないというような諦観を感じるけれど、物質に対する精神の勝利は、あくまでも現実世界において実現されなければ意味がない。
 日本文化(日本人)が成し遂げるべき終点(ω=オメガ)は、これのはずである。

 

 

【日本人の美意識】
 日本語の「美しい」は「慈しみ」の心に支えられています。「うつくし(い)」は古くは「親密な肉親・家族・小動物などへの慈しみの情(愛情)」、広く「可憐な愛すべきものへの情」を表す言葉としてありました。それがしだいに「可愛らしさ」といった意味でも使われるようになり、室町時代の頃から「美」一般を表す言葉として使われるようになっていったことが知られます。
 こうした美を求める心によって、どんな姿形・態度が「かっこいい」か、どんな生活が「かっこいい」か、どんな生き方が「かっこいい」かが形づくられている -- それが日本人だと私は感じています。この美意識=倫理のあり方は、私の知る限りでは、日本人以外にはまず見られないものです。(p.70)
 日本人の美意識というものは、「美」という言葉が辿ってきた日本語の変遷過程のすべてを背景にしている。故に、日本人は日本語芸術である短歌や俳句の世界に触れることで、日本語(訓読みの大和言葉)の響き(周波数)とともに、日本人本来の精神性を深く涵養できるはずである。日本復活のカギは、日本語である。
   《参照》  『宇宙人の告白』 田村珠芳 (TO文庫) 《後編》
            【日本語民族】
   《参照》  『大和的』 友常貴仁 (三五館) 《前編》
            【大和言葉】
   《参照》  “日本語”に関する引用一覧

 

 

【もののあわれ】
 日本に古くからある、万物は「誕生し衰え死を迎え再び誕生し・・・」と巡りに巡り、永遠に生々流転する大きな流れの中にあるという、古くからの自然観。全ての存在は因縁を抱えた一時的な存在であり、常住不変ではないとする、新しくやってきた仏教の無常観。この二つが深く結びついて「もののあわれ」の美意識へと発展していったのです。

「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。・・・咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ」(『徒然草』下 第一三七段)  (p.86-87)
   《参照》  『和のルール』 加藤ゑみ子 (ディスカバー)
            【もののあはれ(寛容さのなかにある悲しみ)】
   《参照》  『「脱亜超欧」へ向けて』 呉善花 (三交社)
            【もののあわれ】

 

 

【物語を通じて「もののあわれ」を知る】
 江戸時代の儒学者たちの「不道徳な男女の色恋や不倫関係を描くばかり」という『源氏物語』批判に対して、国学者・本居宣長が記述した『紫文要領』の記述を引用した後で、著者は以下のように書いている。
 ここで宣長がいっているのは、善悪の倫理やモラルで物語を読んではいけない、物語は哀れさ、切なさ、楽しさ、愛らしさ、憎らしさなど、内面に自然に湧き起る心の動きを、つまり「もののあわれ」を最も大切なところとして読まないといけない -- そういうことでしょう。
「もののあわれ」とは、「その時々の物事や事物や他者との出会いの中で、自然に心の内に生じてくる感動」に他なりません。この「もののあわれ」を知ることが、人間にとっては道徳を知ることよりも、いっそうのこと大事なのだと宣長はいったのです。日本の文化的伝統の本質はここにあると、はっきり示したものといってよいでしょう。(p.77-78)
 高次元世界とは、下記リンクに示すように、「心」の表れが、そのまま表出された世界なのだけれど、宣長は、このことを知っていたからこそ、「心」を基盤とする日本文化の重要性を語っていたのだろう。
   《参照》  『宇宙の羅針盤 (上)』 辻麻里子 (ナテュラルスピリット) 《後編》
            【贈答のシステム】
 中国や韓国の文化的伝統では、内面の心の動きではなく、外面(世俗世界)の善悪の倫理道徳を習得することが最も大事なことです。物語でもその大部分が、・・・中略・・・善が栄えて悪が滅びるという勧善懲悪の道徳観に貫かれたものです。韓国伝統の物語のほとんどがこれです。
 こうした道徳第一主義は、いやがうえにも人間の内面の心の動きを圧迫し封じ込めてしまいます。そこに偽善が生じることになるのです。(p.78)
 人類すべてが、人の心を感受できるテレバスとしての脳力に目覚めれば、宣長の意図するところも、倫理・道徳の不毛さも理解できるようになるだろう。
 全ての人々がテレパスとしての脳力を持たない段階の人類では、支配者(ルーラー)たちの悪意を秘めた法律(ルール)に基づく作為的統治が常態となってしまっている。
 今現在進行しつつある人類社会進化は、物語を通じて人の心を知る“能力”ではなく、テレパスとしての“脳力”によって人の心を知ることができる人類の出現によって導かれてゆくだろう。
   《参照》  『魂の伴侶と出会う旅』 ドリーン・バーチュー (クレイヴ出版) 《中編》
            【テレパシーによるコミュニケーション】
   《参照》  『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《後編》
            【HEBと人間の違い】

 そして、その中心的役割を果たすべきなのが、東経135度という融合極性最大の特異点上に住み、日本語を話す日本人なのである。

 

 

【主語の有無:分離と融合】
 西欧の言語表現では、述語はあくまで特定の主語の対象ですが、日本語では必ずしもそうではありません。「富士山が見える」というように、特定の主語を持たず、述語だけで成立するような表現が極めて多いからです。(p.118)
 主語を立てない(立てなくともよい)表現は、日本語に限らず、世界の諸言語ではそれほど珍しいものではないようです。その意味では、主語表現とは異なる述語表現というべきものは、日本語特有のものではないかもしれません。なんとしても主語を必要とする言語は、英語・仏語・独語・北欧諸語などわずかしかないと言われています。
 ただ、言語表現に限らず、他者に対する態度・姿勢・関係の取り方を含めて、主語・主体の関係を強く立てないような文化は、おそらく日本だけでしょう。(p.119-120)
 主語表現が必須になるのは、分離極性によって、個を屹立させる必要性があるから。
 主語表現が必須ではないのは、融合極性によって、個を屹立させる必要性がないから。
 地球風水である『ガイアの法則』によると、地球には、分離極性の強い地域と融合極性の強い地域がある。
   《参照》  『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》
           【経度0度と経度135度の文明的特徴】

 本書の第3章は、「日本語が保存する原初の心」という内容で、興味深いことがいくつも書かれている。その中で、「受身表現」が多い日本語が、日本人の様々な特性に表れていることなどが記述されているけれど、これらも畢竟するに、「日本語は、東経135度の融合極性最大の日本列島に生じた言語だから」という点に帰着するはずである。


 

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