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 そうか・・・・と思える内容に満ちている。美しい日本語の背景をについて、教えてもらえることが多い。古風な単語の意味を知っていたとしても、なぜそうなのかは分かっていない。それを教えてもらえるので日本語と日本文化の理解が深まる。
 知識の部分は書き出せるけれど、この書籍が保有する日本語の雰囲気は書き出せない。
 図書館で借りて読んだのだけれど、この本は自分で買って蔵書としておかなくては。

 

 

【ののさま】
 中秋の名月に向かって 「なむあみだぶつ」 といえば、もう月は仏法の 「法(のり)さま」 である。(p.28)
 「法さま」 が訛って 「ののさま」。 だから、ののさま は お月さま。

 

 

【いなづま】
 この場合の 「つま」 は夫のことだ。本来 「つま」 は相手という意味だから昔は夫も妻も 「つま」 といった。
 それではどうしてあの雷光が稲の夫なのか。「いなづま」 が走ると空中の窒素は分解されて窒素肥料となる。だから地上の稲を妊娠させる。つまり稲の夫なのである。
「いなつるび」 は雷が稲と性交するという、直接的な表現だった。 (p.40)

 

 

【たたなづく】
 古代の大歌人、柿本人麻呂は女性の柔らかな肉体を形容して、「たたなづく 柔膚(にぎはだ)」 と歌う。「たたなづく」 が山並みの姿だと心得ているとびっくりするが、山を女神とする信仰もあった。そしてなによりも、自然と人間を、違いを超えて普遍的に見ていた古代人の美の感覚がすばらしい。
 ・・・中略・・・。
 そして日本語にこのような美称があることを知ると、「もの」 を 「こころ」 でとらえようとする日本語の特性を、考えざるを得ない。 (p.71)

 

 

【したもえ】
 この季節の到来の仕方を 「もえる」 といった。草木の命の誕生と、火が燃えることに、日本人は区別を設けなかったのである。
 とかく現代人は漢字でものを考えたがる。だから火は燃える、草木は萌えるで、たまたま発音は同じだ、などと思いがちだが、それは順序が逆である。本来同一の現象と考えていたのに、中国の文字では区別するから、中国の習慣にしたがって書き分けるようになっただけだ。
 草木は静かに、しかし同じように命を燃焼させているのである。
 この逞しく確実な命の初動を発見したときの喜びが、「したもえ」 ということばを作らせたのである。(p.85)

 

 

【「ささ」 と 「さざ」】
 日本語では小さなものに 「ささ」 を用い、大きなものに 「さざ」 を用いて区別をあらわすルールがある。大小によって音に少々軽重をつけるという、巧みな方法である。
 恋人どうしの愛には 「ささやき」、会場一杯では 「笑さざめき」。 「細波の」 という 「志賀」 や 「大津」 の修飾語も 「ささなみ」 が正しい。 (p.98)

 

 

【漁る】
 漁をする 「いさる」 は、「あさる」 とじつはおなじことばなのだ。がっかりするかもしれないが、動物は餌を 「あさる」、人間は獲物を 「いさる」 と区別したところに日本語のめでたさがある。
 人間が大漁だと喜んでいる時に、魚たちはお葬式をしているという 
金子みすゞ の詩(「大漁」)を見てしゅんとなった経験がある。そのことの自覚が 「あさる」 のではない 「いさる」 であろう。 (p.146)
 金子みすずの詩          「大漁」 
  
                    朝焼小焼だ
                    大漁だ
                    大羽鰮の
                    大漁だ。
                    浜は祭りの
                    ようだけど
                    海のなかでは
                    何万の
                    鰮のとむらい
                    するだろう。

 

 

【うつせみ】
「み」 という言葉には二つあって、「うつせみ」 の場合は、「身」 ではなく、「見」 。
 「うつせ」 は、現(うつつ)ということばがあるように、「うつせ」 は現実のことでありながら、「うつ」 は 「写す」 「移す」 と移動やコピー含む。・・・中略・・・。日本人は本来、移動してもコピーにしても、いささかも変わらずに一つ一つが現実だと考えたのである。(p.158)
 だから日本では、 “みたての法” が強力に生きている。
 「うつせみ」 が 『源氏物語』 などで 「空蝉」 と字を当てて、はかないもののように代えられていくのは、仏教の影響があるとはいえ、少し残念である。 (p.159)

 

 

【におい】
 「におい」 は本来赤土を意味した 「に」(丹)の、赤い色が顕(た)ち現われてくること、「に」 が秀(ほ)として目立つ様子を行った。
 したがってこちらは色をいったのだが、たがて 「におい」 は漂ってくるものすべてに用い、香りも顕著になれば 「におう」 というようになる。
 ちなみに 「匂」 という漢字は本来ひびきを意味する 「匀」 にまねて日本で作った字(国字)である。日本製だが、「におい」 が響きとして伝わってくることは、これまたすばらしい解釈である。
 ・・・中略・・・。よく 「かおり」 はいい匂い、「におい」 は悪い臭いなどと説明するのを見かけるが、そう勝手にきめられては困る。  (p.162)

 

 

【たつ】
 おそらく日本語の 「たつ」 は、漢字の 「顕」 に一番近いのではないだろうか。「たつ」 以前は見えず、「たつ」 ことで現れる(「あらわれる」 の 「あら」 は 「生る」 と同じ)、そういう物の存在を前提として誕生したことばが 「たつ」 であろう。 (p.167)

 

 

【おさがり】
 「おさがり」 ということばが、神さまからの頂き物だと知った時には、本当におどろいた。
 古く、天皇からの御下賜物は禄(ろく)といった。多くが衣服だったからだ。
 われわれは毎食毎食、神さまからのおさがりを頂いて食事をしている。だから 「いただきます」 といって食べ始める。 (p.171)

 

 

【くさまくら】
 旅ということばは、家と反対のことば。むつかしくは対義語(アントニム)という。すると旅が草枕を象徴するように、家は何を象徴するか。それが手枕である。
 「くさまくら」 ということばの大事さは、逆にこの愛の欠落の悲しさを訴える点にある。だから妻が死んで手枕がなくなった家も、古代人には悲しみが大きかった。 (p.187)

 

 

【わび:わびる】
 私の見るところ 「詫び」 は 「侘び」 と同じ(日本も中国も)。そして 「わび」 は千利休の茶を 「侘び茶」 といい、俳人、松尾芭蕉が 「わび・さび」 を理念としたように 「さび」 の仲間で、ほとんど死に絶えるようなわびしい風情をいう。これらをあれこれ考えた結果、私は 「わび」 とは死にそうになる感情をいうのだろうと結論づけた。この閑寂の境地を理想としたのが利休や芭蕉だった。
 だから自分の非を 「わびる」 とは、「非に気づいて死に絶えたような心境です」 という告白でないといけない。 (p.202)

 

 

【あやむ:あやまる】
 ことばのできるルールからいうと 「あやむ」 から 「あやまる」 ができたはずだ。
それでは 「あやむ」 とはどうすることか。
 殺すことだ。謝罪することは、なんと殺すことだったのである。
 もちろん殺すのは自分自身。もっと詳しく言うと、自分が殺されるような状態になることだ。あまりもの罪の深さに。 (p.204)

 

 

【さび:さびる】
 「寂しい」 とか 俳句や茶道の 「さび」 などの言葉は、すべて鉄の錆びと同語なのだという。
 しかしこう思い当たると、日本文化のすばらしさを感じるはずだ。そもそも 「さび」 とは 「然(さ)びる」 ことで、それらしくあることをいう。風景はごく自然でわざとらしくないこと、少女は少女らしくて妙に大人びていないこと。俳句で尊重するのも、それ自体の自然の姿なのである。鉄でいえば、磨ぎに磨いでぴかぴかしているのは鉄本来ではない。鉄は酸に弱い本性のままにあることが鉄の錆びだったのである。 
 「さび」 とは 「らしく」 あることの教えである。 (p.209)
 死を背にしてつぐなおうとする純真な  ”わびる” と “あやまる” 。
 死へと向かう自然な流れに逆らわぬ “わび” と “さび” 。
 これほどまでに、日本と日本語を、簡潔明瞭に示してくれた書籍は、かつてなかったように思う。

 

 

<了>
 

  中西進・著の読書記録

     『美しい日本語の風景』

     『古代日本人・心の宇宙』

     『日本人の忘れもの』

     『日本人とは何か』

     『狂の精神史』