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 日本人の忘れものは ”お弁当箱” です、と表紙は言っているけれど、本分中にはそんなことは全然書かれていない。
 同じ日本文化の基底部分を語りながら、 樋口清之さんの著作 より、中西先生の著作の方が気品がある。
 既述の読書記録の内容と重複する部分を除いて、印象的な部分を書き出しておいた。

 

 

【日本人は色恋いをした】
 そもそも 「いろ」 ということばが親愛の気持ちを示すことを、現代人は殆ど忘れているが、古くは母親が同じ兄弟・姉妹を 「いろ-----」 といった。「いろね」(兄・姉)「いろと」(弟・妹)と。「いろせ」 はやはり母親が同じ男性である。この 「いろ」 とは 「親愛なる」 といった意味だ。
 一方、女性に 「いらつめ」 という敬称があった。「いろの女」 という意味で、もっぱら貴婦人に用いられたのは、「いろ」 に尊敬の心が込められていたからである。男性に対しては 「いらつこ」 という。
 この時代、親愛、敬愛、尊敬は一つづきの心理だった。
 ところが一方、「いろ」 が色彩をあらわすことは、今も昔も変わりがない。親愛と色彩とが同じことばで表現されるとは、現代人にとってはむすかしい。
 しかし他人への親しみ、尊敬の気持ちを心の華やぎと考えたのだといえば、わかってもらえるだろう。 ・・・(中略)・・・ 。これらがみんな 「いろ」 をもってよばれるのだから、「いろ」 が恋愛に使われても不自然ではないだろう。
 要するに色恋いとはそもそも心身の彩りをいうことばだった。(p.37-38)
 やや意外に思いながら読んでいたのであるけれど、この記述に続いてテレサ・テンの名曲、「時の流れに身をまかせ」 の歌詞の一部が援用されていて、なるほどと思った次第。
 時の流れに 身をまかせ
 あなたの色に 染められ  (p.38)

 

 

【日本語の敬語】
 そもそも日本語の敬語は、最初は親愛の気持ちをあらわす方法だった。8世紀のころはそうである。
 それがやがて敬愛の気持ちをあらわすようになり、やがて尊敬の気持ちの表現となった。
 そのうえでも、尊敬するかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語が一致してしまった。
 そのばあいでも、心のなかで尊敬してもいないのに敬語を使うと、それこそ、慇懃無礼になる。
 だからあくまでも、敬語は相手を愛する気持ちの表現方法なのだ。愛は尊敬がなくては生じない。尊敬の気持ちのない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語、さっき親愛をあらわすといったものだ。(p.49-50)
 敬語なんか使われたら “みず臭い” と思ってしまうとしたら、日本文化本来の地点で感受しようか。

 

 

【心の訓練としての精神主義は、競争社会にこそ重要】
 “虫の知らせ“ とか ”もののけ“ という言葉を用いている日本人であるけれど、日本人の精神主義は ”気“ を読むことを前提としていた。
 すべて勝負師は、凡人の感じない 「け」 を感じることができるほど、訓練を積んでいる。イチローだって横綱だってそうだ。
 ところが現代人は心の訓練なんて前近代的な精神主義だと思っている。その結果、データが出てきたところから勝負を始める。 ・・・(中略)・・・ 。
 精神主義は競争社会にこそ大切である。
 一流の企業家は、みな修養を心掛けているではないか。何ごとも先手必勝。先手は虫や物、気がおしえてくれるものなのである。(p.69)
 直感力というテーマで、その開発訓練をするセミナーなんかがあったりするけれど、そんなものは近代化する以前の日本人なら鋭敏な感覚のままに、全ての人々が持っていた。つまり、近代人の多くが修養しなくなったのである。

 

 

【教育】
 つまりは、外から働きかけて身体のリズムをととのえ、いのちをリズミカルにする訓練が教育なのだろう。
 よく知育と体育といって、知識を与えることと体を鍛えることを対立的に考えるが、むしろ知育とは体育なのだという大条件があると私は考える。
 反対に体を鍛えるといってムチを振るっていては、生徒や子どもはビクビクして精神失調症になってしまう。リズムどころの話ではないから体育は無理である。
 昔の塾がもっていた精神は、生命のリズムの誘発だった。現代学校制度の見せかけの整備が、それをなくしてしまったのである。(p.104)
 中西先生も、 『声を出して読みたい日本語』 の 齋藤孝さんの思想的先人である。
    《参照》   『運のつき』  養老孟司  マガジンハウス
              【脳の訓練の半分は、体を動かす訓練】

 生命のリズムは、体のカレンダーとしても身体意識に刻まれているべきである。

 

 

【体のカレンダー】
 私は・・・中略・・・「体のカレンダー」 を少しは大切にしようではないかと提案したいのだが、この 「体のカレンダー」 の原点は太陽や月にある。だから現代人は、不自然な 「頭のカレンダー」 からもう少し解放されて、太陽や月の姿を見ながら生活したい、という希望ともなる。(p.173)
 アメリカのプリンストン大学のリーバ教授に 『月の魔力』 というおもしろい本があって、私は一時期熱中していたことがあった。(p.175)
   《参照》  『月からのシグナル』  根元順吉  筑摩書房
             【出産と月齢】

の中にも、藤原正彦さんが翻訳していたリーバ博士の 『月の魔力』 に関する部分を抜き出しておいたけれど、日本文化や神道といった基層領域に興味を持つ人々は、自然と人間が連動する根源的な部分に着目するという共通項があるらしい。それは、仏教やキリスト教という二千年紀思想に組み込まれる以前の、地上のすべての人類が共に生きていた、自然のリズムに基づく世界である。
 太陽や月の持つ働きに、われわれはもっと目を向けて、自然な循環の中に体を預けるべきであろう。木の芽時の気持ちを大事にし、立冬のころだと思って衣類に心を配りたい。
 ところがいまのカレンダーには3月3日だから耳の日、9月9日だから救急の日だ、とある。
 少しはずかしくないだろうか。(p.176)
   《参照》   『梅干と日本刀』 樋口清之  祥伝社
            【五節句】