《前編》 より
【相撲の「はっけよい」】
行司は、この力のぶつかりをうながして 「はっけよい、はっけよい」 という。八卦がよい、というのである。八卦とは天地や自然、人間界のすべての現象のことで、また 「当たるも八卦、当たらぬも八卦」 というように、現象の占いも意味する。宇宙の八卦を占ってみたところ、すべてがよい。さあ何の心配もない。この晴れがましい土俵の上で、堂々と戦え、というのが行司の掛け声である。(p.111)
【相撲の「心字」】
ところで、本郷のキャンパスにある心字池の由来を、猫の親分は、漱石の作品の 『心』 だと言っていたけれど、本当だろうか? 心字池は、日本文化に則した日本庭園の中に複数みられるものである。
勝てば、場合によっては賞金が与えられる。それをもらう時には手刀を切る。
この仕草も 「心」 の字をかくのだと説明される。まことに心にくい説明ではないか。昔から日本人は、たとえば庭の池にも心字池といって 「心」 の字の形の池を作ってきた。同じものが手刀だというわけだ。
心という字を宙に書いてみせるという感謝の表現は、静かな気高さに満ちている。(p.111)
手刀の順序は、まず中央、そして左右の点を打って、最後が長~い足のような部分である。お相撲さんがちゃんとやってるかどうか、確認しましょう。お相撲の解説者やアナウンサーは、こういったことをきちんと説明しているのだろうか。してないならしてほしい。この仕草も 「心」 の字をかくのだと説明される。まことに心にくい説明ではないか。昔から日本人は、たとえば庭の池にも心字池といって 「心」 の字の形の池を作ってきた。同じものが手刀だというわけだ。
心という字を宙に書いてみせるという感謝の表現は、静かな気高さに満ちている。(p.111)
ところで、本郷のキャンパスにある心字池の由来を、猫の親分は、漱石の作品の 『心』 だと言っていたけれど、本当だろうか? 心字池は、日本文化に則した日本庭園の中に複数みられるものである。
【漢字アラカルト】
漢字の成り立ちを解さず日本文化力無き人々は、何でもお金で買い与えて 「ヤサしい」 人になろうとし、お金がない人を 「スグれていない」 と見下すのだろう。
「塩」 も本来は 「鹽」 だが、面倒なのでもう800年も前から 「塩」 になった。「オレに何でも聞け」 といばった男に 「シオは何扁ですか」 と聞いたら 「土扁だ」 と答えたという笑い話が 「徒然草」(136段)にある。正しくは鹵(ろ)扁である。(p.122)
この記述の前後には、いろいろな漢字に関する興味深い記述が沢山ある。
「優」 つまり人間が憂いをもつと優れているとなると、内容の深さに感動するだろう。(p.124)
人を憂うると優しい、ともなる。漢字の成り立ちを解さず日本文化力無き人々は、何でもお金で買い与えて 「ヤサしい」 人になろうとし、お金がない人を 「スグれていない」 と見下すのだろう。
【ご飯を ”よそう” 】
むかし家族の茶碗に飯を盛るのは主婦の役目だった。 ・・・(中略)・・・ 。
しかも古来日本人は茶碗に飯を盛ることを 「よそう」 と言う。「よそう」 とは女性が 「装(よそお)い」 というのと同じで、美しく飾ることだった。
あだやおろそかに、飯を盛ってはいけない。
むかしの女性は、この役目をむしろ誇りとし、夫に飯を盛る座につくことが、あこがれの男性の妻となることだった。(p.161)
しかも古来日本人は茶碗に飯を盛ることを 「よそう」 と言う。「よそう」 とは女性が 「装(よそお)い」 というのと同じで、美しく飾ることだった。
あだやおろそかに、飯を盛ってはいけない。
むかしの女性は、この役目をむしろ誇りとし、夫に飯を盛る座につくことが、あこがれの男性の妻となることだった。(p.161)
【味は母系社会である】
あるとき、作家の太田治子さんと歓談していたら 「男というものは 『おふくろの味』 をもっていても、結婚すると妻の味に従ってしまうのがふつうですね」 と断言された。そう振舞ってこそ、あっぱれ主婦はつとまるのだろう。
要するに家庭の味においても、日本は母系社会なのである。久しく家父長制を名乗り、男性を主人と呼んでおきながら、じつは確固たる母系社会を連綿としてつづけ、お惣菜屋が 「おふくろの味」 を看板にすると繁盛するのが日本だ。姑は嫁に一家の味を教えたと思って満足しているかもしれないが、これも父系社会という建前の思い込みにすぎないらしい。(p.162-163)
料理が作れないような主婦の子どもたちにとって、「おふくろの味は、コンビニ味」 とか、「マクドナルド味」 とか、「ファミレス味」 とかって言うんじゃないだろうか。そうなっちゃったら、味は企業系社会である。要するに家庭の味においても、日本は母系社会なのである。久しく家父長制を名乗り、男性を主人と呼んでおきながら、じつは確固たる母系社会を連綿としてつづけ、お惣菜屋が 「おふくろの味」 を看板にすると繁盛するのが日本だ。姑は嫁に一家の味を教えたと思って満足しているかもしれないが、これも父系社会という建前の思い込みにすぎないらしい。(p.162-163)
【床の間】
《参照》 『古代日本人・心の宇宙』 中西進 日本放送出版協会 《後編》
【「とこ」 という時間】
床の間は特別に迎えた客人、一家のあるじが座るべき場所として聖空間であった。
今はそれが形式化して狭くなり、偉い人が座る場所が飾り物をおく所に変わってきた。しかしいかに変貌しても、トコの間だから別扱いで、トコ柱には銘木を使うとか、トコ板、トコ天井には特別な材料を使うではないか。(p.189)
床の間のトコとは “とことわに” の “とこ” である。今はそれが形式化して狭くなり、偉い人が座る場所が飾り物をおく所に変わってきた。しかしいかに変貌しても、トコの間だから別扱いで、トコ柱には銘木を使うとか、トコ板、トコ天井には特別な材料を使うではないか。(p.189)
《参照》 『古代日本人・心の宇宙』 中西進 日本放送出版協会 《後編》
【「とこ」 という時間】
【住まいにあるべき3つの聖空間】
かつて “火” は熱源でありかつ光源であり家の中心となる部分に位置していた。しかし光源は電気に、熱源はガスコンロになり、はたまた電気コンロとなれば生活に “火” は無くなってしまっている。
《参照》 『柔構造のにっぽん』 樋口清之 朝日出版社
【かまどは魔よけだった】
神棚から 「お下がり」 をいただくという、神仏に対する ”敬” の習慣もなくなってしまっている。
《参照》 『美しい日本語の風景』 中西進 淡交社
【おさがり】
どうやら従来の床の間、火のありか、そして神仏のおわす所と、3つながらに聖空間をうしなってしまったのが、現代日本人のすまいであるらしい。(p.195)
今や、床の間などない住宅が多いのだろう。かつて “火” は熱源でありかつ光源であり家の中心となる部分に位置していた。しかし光源は電気に、熱源はガスコンロになり、はたまた電気コンロとなれば生活に “火” は無くなってしまっている。
《参照》 『柔構造のにっぽん』 樋口清之 朝日出版社
【かまどは魔よけだった】
神棚から 「お下がり」 をいただくという、神仏に対する ”敬” の習慣もなくなってしまっている。
《参照》 『美しい日本語の風景』 中西進 淡交社
【おさがり】
近頃の家庭崩壊だって、すまいにこもる濃い精神の陰翳を忘れてしまったために起こるのである。(p.196)
<了>