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 神道的な汎用語句に慣れている人々が読むなら、古代日本人の心に広がる宇宙が良く分かるはずである。
 この書籍の197ページ以降に記述されている 「永遠の宇宙」 と題された章は、まさに日本文化の根源を解明する内容に思われる。

 

 

【世界樹】
 日本ではいまでも柱を御神体に見立て、神様を一柱二柱と数えています。これも日本が守り続けている古代の特徴のひとつです。さきのイザナギ・イザナミがオノゴロ島を天の御柱に見立てなければ降りてこられなかったというのも、そのためです。 (p.14)
 天の御柱を、世界樹とか宇宙樹といわれる概念の変形として捉えている。

 

 
【ミオヤの神】
 広く神話を見渡しますと、どうも天照大神はそれほど影が濃くありません。・・・(中略)・・・
 それよりも、もっと大事なところに登場するのはミオヤの神とよばれる神さまです。たとえばイザナギ・イザナミが子どもを生んだところ、蛭のような子が生まれました。この異形の子を畏れかしこんで、どうしたらよいでしょうと相談をもちかけるのは、ミオヤの神に対してです。
 あとにもくわしくふれますが、大国主という神様が殺されたときも、彼をよみがえらせたのはミオヤの神です。
 このミオヤの神は別の名前タカミムスヒで登場するのですが、ほかならない天孫降臨のときも、天照大神とともに、天孫を派遣する神として出てきます。
 こうなると、ミオヤの神こそ、中心の神だというべきでしょう。 (p.25)

 "ミオヤの神" の別名は "タカミムスヒ"。 また、"ムスヒの神" とも呼ばれている。

 

 

【ムスヒの神】
 ところで、このミオヤの神はムスヒの神ともよばれます。「ムス」 は生産を意味します。つまり祖先は収穫をも約束してくれる力をもっていたのです。それはいうまでもないことで、祖先は子孫を生んだのですから、人間を繁栄させ、同じように収穫物も豊かにもたらしてくれる神だったのです。ムスヒの神は日本の神話では、最も根本の神だといってもいいでしょう。  (p.28)
 何年も前のことだけれど、著者の中西先生がパネルディスカッションに先立つ基調講演をされていた時、「ムスヒ」 という言葉がキーワードとして何度も語られていたのを覚えている。けれど、「ミオヤ」 という言葉が語られていたかどうか記憶が無い。
 中西先生にとっては 「ミオヤの神=ムスヒの神」 などは当然すぎて言うまでもないことだったのであろうけれど、そのとき私の頭の中に 「ミオヤの神=ムスヒの神」 という方程式がしっかり焼き付けられていたら、その後、幾つかのことがもっと濃い色彩でつながって理解できていただろうに、と思えてしまう。


【雷】
 漢字の雷は天候を示す 「雨」 の下に 「田」 を書きますが、「田」 の正字は 「卍」 で、・・・(中略)・・・。つまり天空をきらめく稲光が卍です。・・・(中略)・・・田はアレキサンダー大王の棺にもずらりと描かれています。ギリシャからヘレニズム文化をとおってアジアにもたらされたものが中国の卍模様、インドの仏像、寺院の卍模様です。
 その中でさらに、注目されるのはエルトリア人における雷です。今のイタリア北部に紀元前9世紀から紀元前3世紀ごろに存在したエルトリアのことはローマの記録によって知られていますが、・・・(中略)・・・。
 このエルトリアでは最高の支配神ティニアを雷と考えました。雷神の偶像の手には切っ先も鋭い、剣のような形をした雷が握られています。・・・(中略)・・・。
 こうしてみると日本で雷をもっともあがめたとしても、あながちふしぎではないでしょう。太陽を崇拝することとは別に、むしろもっと古く、古代日本人は雷をもっとも畏れ、それを最高の神とすらしていたのではないかと思います。・・・(中略)・・・。
 俵屋宗達の 「風神雷神図」 も、遠い根をもつというべきでしょう。    (p.31-32)
 太陽神と伊勢神宮が関与するなら、雷雲のような大注連縄のある出雲大社は、国譲り前の主宰神の徳を雷に見出していたといえるように思う。
 それにしても、エルトリア(=エルトルキス)がつながって安心した。やはり、単なる乱読書とはいえ、心が震えるときは、どこかで必ずや繋がるものである。
     《参照》    『イタリアーニ』 小林元  日経BP社
                【エルトルキス】

 

 

【聖なる動物たち】
 日本でもワシを真鳥といいます。本当の鳥というのですから、鳥の中でもっとも尊敬した点で、古代日本人とネイティブ・カナディアンは一致するのです。
 またオオカミも真神といわれました。いまでは考えにくいのですが、飛鳥寺のあるあたりの原を 「真神が原」といいました。オオカミがすむ聖域だったのでしょうか。
 そもそもこのけものをオオカミ(大神)とよぶだけで固有の名前がないということは、尊敬の大きさを示しています。 (p.65-66)
 飛鳥寺の近くにある有名な神社といえば三輪大社があり、オオミワ神社とも呼ばれているけれど、その漢字は 「大神神社」 と表記されている。三輪神社に関して、獣のオオカミと関わる因縁話は聞いたたことがないけれど、メモとして書き出しておいた。

 

 

【鬼ごっこ、ままごと】
 古代から受け継がれてきた、子どもの遊びの起源に関して、このように書かれている。
『万葉集』 では人が噂することによって男女が結婚できる、という信仰があります。ことばの業が大きくて、言えば事実となるのです。これも模倣が事実と同じだった構造とおなじではありませんか。模倣呪術のなごりなのかもしれません。
 こうした 「ごっこ」 と 「ごと」 の心を掘り起こすことによって、古代人の悲しみと祈りにふれることができます。 (p.129)