《前編》 より

 

 

【零に向かっての永遠 : 道を究める日本人 と ギリシャの哲学者ゼノン】
 日本語の 「きわむ」 はゼノンの思想とそっくりです。 (p.202)
“極める・窮める・究める” という表現を尊ぶ日本人の 「道」 に終わりはない。「アキレスと亀」 の逆説や、「中間点を辿って永遠に到達点に届かない二分法」 の逆説を語ったゼノンの思想もエンドレスである。
 老子は無を説きます。ごく簡単にいうと、

 天象に形無く、道は隠れて名無し。

 というくだりも、無を説く中心的発言の一部でしょう。固定した形、よぶべきことば以前のものが天象や道であるといいます。逆に言えば形以前、名以前に天象や道があるのです。
 そこで道とは、

 道の物たる、唯、恍、唯、惚たり。

 ということになり、その恍、惚の中に象(きざし)があり、さらにその象も恍、惚であって、その中に 「窈たり冥たる物」 があるというのです。
 この無と見えるものの質量化は、おどろくべき心熱にみちています。零とみえるものこそ基本であるという、零の有効性の発言がこの中にあるのです。
 換言すれば極微の空間へ向かって、さらにさらに点を打ち続けていこうとする情熱ともいえるでしょう。
 おそらくゼノンが考えたのも、そうした一見の零の有効性でしょう。この西欧で異端とされたものが、じつは東洋の基本の認識でした。そして日本語の 「きわむ」 はそれと同じ認識の存在を証明するものだと考えられます。(p.203)

 

 

【永遠の獲得 : 継続することによる神との一体化】
 ねがふ(願)  いはふ(祝)  ちかふ(誓)  うけふ(誓約)  のろふ(呪)  とこふ(詛)
 とあげてみると神を対象としたもの、神かけたものなど、神にかかわることばに 「・・・・ふ」 が多いことが分かります。これらのうち 「ねがふ」 「いはふ」 は四段動詞が継続の助動詞 「ふ」 をともなったものと考えられます。「ふ」 は継続の意味の動詞 「ふ」(経)が元で、つまり神の心を 「ねぎ」(和・穏)つづけることが、願いごとをすることであり、「いひ」(言)つづけることが神を祝福することだった証拠です。
 ・・・(中略)・・・。
 そこには継続というものへの、独特な認識があったのではないでしょうか。継続することによって事態が聖化します。いうことを無限に連続させると神の祝福が実現し、神の恩寵があたえられる、といったように。神の心をなごめつけると願いはかなえられる、といったように。
 継続は無限でなければなりません。永遠の言上や永遠の和(ね)ぎごとの果てに、永遠である神の世界と事態が一体化し、人間は神の世界への参入が許されることになるのです。 (p.205-207)
 「信仰心とは継続すること」 という神道的な定義の本質は、ここに由来するのだろう。
 「短期の利益より何より、 “継続” すること」 に第一の意義を見ている日本的企業経営の本源も、おそらくここにあるのであろう。神道的に言うならば、まさに “神を行じ続けること(による一体化=聖化)” なのであろう。
 さて、神の永遠性を巡ると、 "ただいま" に回帰する。

 

 

【「とこ」 という時間】
 神の領域としての永遠性を示すことばが 「とこ」 だったことが思い合わせられます。 (p.207)
 古事記に記されている神々の名前を知っている人には分かりやすい。国常立大神(くにとこたちおおかみ)など、「常(とこ)」 と読む神々が多く登場している。 常夏、常滑、常世、常盤といった単語などもある。
 しかし、『万葉集』 では、中国の文字を借用しているために、多くの混同が起こっているらしい。
『万葉集』 のテキストの 「常」 を 「とこ」 「つね」 と読み分けることにおいて、誤りを犯すものがあります。しかし、両語ははっきりと別語で、峻別されなければなりません。  (p.207)
 横道にそれたけれど、以下が結論。
 そもそも時間には自然の草木がもっている、春になるといくども芽生えてくるというサイクル時間と、仏教の無常住がとくようなリニア時間とがあります。もう一つ、昼と夜のように補完しあう補完時間があるという意見もあります。
 しかしいまの 「とこ」 は、そのいずれの時間でもない、神の時間を要求します。神は何時でも示現し、神は死にません。そんな祭式の時間の 「今」 のように、「永遠の今」 を 「とこ」 は指定していると思われます。(p.209)
 日本人の日常生活用語として用いられている 「ただいま」 の最終的なルーツは、仏教の一派である禅宗の修行目標としての表現ではなく、古代日本人の 「とこ」 という言葉に秘められている。
 

【個体を超える形 : 古代人にとっての物の姿】
 古代日本人の形に関わる世界観が、「うつし」 や 「かげ」 ということばをめぐって説明されている。神道では、人形(ひとがた)・形代(かたしろ)といったものがよく用いられるけれど、この 「しろ」 について。
 『日本書紀』 に、 

 物実、これをモノシロと云う。

 とする注があります。
 すなわち 「しろ」 とは現代ふうな代わりというだけのものではなく、「実」 という中国字を借りるべきであったほどに、実物だったのです。
 その上で 『源氏物語』 などに頻出する 「かたしろ」(形代)が理解できます。宇治の姫君はそれぞれに 「かた」 を 「しろ」 として所有していました。彼女たちはけっして代用品ではなく、そのもの(実)でした。
 このような言い方は現代人にとって詭弁としか映らないでしょうか。その詭弁と感じさせる原因は存在を個体として認めるからにすぎません。つねに転移してやまない現実、材料(しろ)として、個体を超えて存在し続ける形、明滅の中にある実体。それらこそが古代人にとっての、物の姿でした。 (p.212-213)
 このような古代人的な認識世界は、現代文学の中でも、先天的に呪術性を内在しやすい性である女性作家の作品の中や、幻想文学や意識文学の中において表現されているはずである。呪的想像であろうが幻想であろうが妄想であろうが意識された世界は、その世界において実在である。古代人はそのような、意識における自由自在・変幻自在な自在(ボーダレス)世界を生きていたのである。
 
<了>
 

  中西進・著の読書記録

     『美しい日本語の風景』

     『古代日本人・心の宇宙』

     『日本人の忘れもの』

     『日本人とは何か』

     『狂の精神史』