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 著者は国文学の先生だから、この本の中には昔の日本人たちがたくさん登場する。「古典の中には今日のわれわれと全く同じように悩みながら生きていた人々がいた。古典ぎらいの若者にも同じ血をもった人間像をこの書物から発見してもらいたい」(p.220) と、あとがきに書かれている。

 

 

【狂ほす】
 「狂ほす」 ということばは、本来、「繰る」 という語と同根であろう。手繰り寄せる、糸をくる ――、すべて丸くする運動が 「くる」 である。 ・・・(中略)・・・ まさに、ふしぎな陶酔と恍惚とに向かって、激しく舞踏は続けられたことであろう。(p.10)
 「狂ほす」 の語源は円環運動を意味するらしい。これは本来、宇宙との一体化を目指す行為である。
   《参照》   『トニー流 幸せを栽培する方法』 トニー・ラズロ (ソフトバンククリエイティブ)
               【セマー】
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《中編》
               【意識領域の拡大とスピン(回転)運動】

 

 

【風狂】
 『懐風藻』 に記述されている藤原麻呂について言及している。
 僕(やつがれ)は聖代の狂生のみ。ただ、風月を持って情(こころ)とし、魚鳥を翫(もてあそび)とす。名を貪り利を狗(もと)むることは、いまだ冲襟に適(ふさ)わず。酒に対してまさに歌ふべし。 (『懐風藻』)

 この〈狂〉は、朝廷の官人として謹厳にあることへ背を向けた、風狂の野生を骨子とする。俗世の名利を捨て、風月、魚鳥の楽しみの中にあることを、自ら〈狂〉と興じてみた趣である。(p.19-20)
 一般的には 「風流」 というほどのことなのだろうけれど、それよりは世捨ての心境が強い場合に 「風狂」 となるらしい。

 

 

【 「をかし」 と 「あはれ」 】
 どうも私には、文学が結晶度をますにつれて、つまり 「あはれ」 という王朝的美意識が確立してゆくにつれて、「をかし」 の精神は次第に捨てられていったのではないかと思われる。 ・・・(中略)・・・ 。
 「あはれ」 の目には、活発な地下性の中に働いていた〈狂〉のもつ実体は見えて来なかった。「あはれ」 の照らし出す実体は、もっと別のものだったように思う。
 「をかし」 と 「あはれ」 とを対立的に考えて平安朝人の精神を考えることは常套的すぎるかもしれない。しかしその常識的な図式は存外にふさわしく〈狂〉と観じられるべきものの、彼らにおける位置づけを明らかに示す。そして、後々 「あはれ」 の中に日本人の捨てていったものが何であったかを、充分考えさせるのである。(p.52-53)
 「あはれ」 の文学たる 『源氏物語』 に対して、「をかし」 の文学が 『枕草子』 である。

 

 

【 「をかし」 】
 「をかし」 はこちらに招きよせる意味の動詞 「をく」 から派生したことばで、招き入れたいと思うほど心ひかれる情態、趣のある様子をいうことばだったが、展開して好ましい、面白い意味となり、その一部として笑うべき場合にも使われるようになった、と。(p.50)
 平安時代の人々にとって、夢と現実は明確な境界をもつものでなかったのだから、「をく」 の対象は、物、心、霊、魂などが渾然一体となっていたはずである。つまり、「をかし」 の語源からしてその対象は広範だったのである。

 

 

【 「あはれ」 】
 愛にまつわる性の〈狂〉を、もののけに見据えたところに、 『源氏物語』 の目の高さがあったと、私には思われる。(p.66)
 愛にまつわる性の〈狂〉であるところの “もののけ” とは、具体的に六条御息所の生霊のことである。
 「あはれ」 の対象は、 「をかし」 の対象に比べたら、かなり限定的である。

 

 

【狂のドラマ:能】
 能という演劇、謡曲というその台本は、あまりにも〈狂〉にかかわりすぎている。その上 「遊狂」 とう類別も行われ(『三道』)、一部の能を修羅物とよび、「風流」 ということがらも能の上に重要な特色となっている。まるで、これまで問題にしてきた〈狂〉にかかわるすべてが、この中に投げ込まれているような気がする。
 これはただならぬことではないか。狂のドラマが能だということは。(p.118-119)
 〈狂〉にかかわるすべてが、能の中に投げ込まれているのは故ないことではない。
「をかし」 の語源である 「をく(招く)」 術を会得している人はワザヲギと言われ、その道の達人はシャーマンだったのであり、それ故にこそシャーマンはあらゆる芸能に通じてもいた。能の大成者、世阿弥である。
   《参照》   『隠れたる日本霊性史』  菅田正昭  たちばな出版
            【世阿弥はなぜ、芸能・芸道全般の奥儀について語ることができたのか?】

 

 

【物狂の根源】
 『三道』 をひけば、そこで世阿弥は女体の姿にそえて、

 かくの如き貴人妙体の上に見風の上に、或は六条の御息所の葵の上に付き祟り、夕顔の上の物の怪に取られ、浮き舟の憑き物などとて、見風の便りある幽花の種、逢い難き風得なり。

という。この怨霊の憑いた女体の中に 「幽花の種」 を見出していることは、すでに言われていることではあるが、「物狂」 の根源が怨霊にあることを物語るものであろう。(p.128)
 世阿弥が能において、物狂の根源である怨霊をこそ対象とした目的は何だったのだろう。

 

 

【〈狂〉の聖化】
 「物狂」 の本意が狂者の物まねにはなかったということを示している。現実世界の実際の狂者を演じ出そうと世阿弥は考えたのではなかったのである。その肉体は仮りのものであって、〈狂〉そのものを現前せしめることが眼目だったとしか考えられないではないか。 ・・・(中略)・・・ 。
 結局それは、本来が異常と思われる〈狂〉なるものを、その異常から救い取って来て正当に精神の中に位置づけることだった。〈狂〉の聖化といってよいのかもしれない。(p.133)
 〈狂〉の聖化とは、怨霊の救済ということにもなるだろう。

 

 

【死狂】
 殺伐たる乱事はむしろ死の脅威に拮抗する手立てとして人々の用いたものだっただろう。悪業をやめれば、無常の風が身体を冷たくする。 『保元物語』 には著名な 「合戦の庭に出て、死は案の内のこと、生は存の外のことなり」 ということばがある。人々にとって死のみが唯一はかり知りうる未来であって、この確かさに向かって、人々はわが生を賭けた。
  ・・・(中略)・・・ 。
 極端にいえば、彼らはいかに死ぬかだけに生の意味を求めたといってよい。物に憑かれたように、確かな死を求めたのである。(p.144)
 死狂は、王朝末期から中世にかけての乱世に出現した様態である。
 「悪業をやめれば、無常の風が身体を冷たくする」 という記述があるけれど、平穏な時代に生きている現代人には、思いもつかない心理である。この冷たさこそが〈死狂〉を顕現させていたのだろう。

 

 

【芭蕉の風狂】
 いかに放下して乞食の姿をとろうとも、事実の乞食であっては俳諧がかなわないのである。そこに事実(症状としての)の狂と風狂との重要な境がある。風狂とは、そのような存在者の、しかも表現された場合をいうのである。(p.162-163)
 風狂とはいっても、芭蕉は世俗のわざの中に風狂を求めたがゆえに逆説の世界に迷い込む。
 増賀と芭蕉はまるで逆である。増賀は世俗の妄執を排除すべく風狂を求めればよかった。ところが芭蕉は、本来妄執のはずの世俗のわざの中に風狂を求めた、私はそこに芭蕉の困難さ、それゆえの風狂のより多くの確かさを見る。 ・・・(中略)・・・ 。
 「ほつ句すべきわざ」 を妄執と感じた時に、彼の求めていた妙義は捉えられたのかもしれない。無為なる造物主の妙義には、妄執はなかったはずだからである。風狂すら妄執と観じた時に、真の風狂の完成があったろうか。(p.164-165)

 

 

【〈狂〉という意志】
 文庫版のあとがきに書かれている文章
 〈狂〉とは自己における透明への意志と見定めて良いようにも思うが、とくに世相が一見の平穏をもって眺められる昨今、 ・・・(中略)・・・ われわれはより以上に〈狂〉という意志を、見きわめなければいけないように思う。(p.219)
 狂気の思いは、誰でも内にかかえている。誰だって青年の頃は、内在する狂気に敏感だったはずである。
 『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』 というタイトル作品があったごとく、狂気は大江健三郎のいくつかの小説のテーマになっていた。しかし、小説としてあまりにもつまらなかったから、読んでも自らの狂気を慰撫することはまったくできなかった。私自身が狂気のガス抜きをしていのは、専らクイーンの ボヘミアン・ラプソディー によってだった。
 おそらく現代人の狂気とは、人生のすべてを放擲してしまいたい衝動、ないし、放擲してしまいかねない衝動として意識されているのではないだろうか。そんなリセット感覚の中に、透明へと回帰したいという願望が伏在しているのだろう。
 能や歌舞伎が大衆芸能であった時代、それぞれに観衆の狂気を慰撫していたはずであり、時代が進むにしたがって文学や音楽がそれらに置き換わってきたのだろう。
 良い子でい続けようとすると狂気が溜まる。芸術に触れて自らを解放したり、そこそこに悪い子として振舞うことも、〈狂気〉と付き合う上での秀でた知恵である。

 

<了>