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 奥様が描いている商標のようなこの似顔絵を見るだけで、トニーさん夫妻の著作と分かる。
 

 

【 「嫌い」 は禁止 】
 「 『嫌い』 と言うな」 ―――。
僕は両親に、「嫌い」 という言葉を使わないように育てられた。(p.9)

 
〈左多里のつぶやき〉
 「嫌い」 と言ってしまうことで、「自分はこれ(この人)が嫌いなんだ」 と自覚してしまうような気がする。口に出すと、この世にその気持ちが存在してしまうから。表現をゆるめておいた方が、その評価を訂正する余裕があるもかも。(p.13)
 言葉に “する” “しない” は重大なポイントである。言葉にした瞬間に霊界では具体性を持って実在してしまう。現実的には、偏向の産物である鏡の間の間取りを狭めるためにアクセルを踏んでいるようなものであろう。自己限定という近づいた鏡には、より明確に自分自身の姿が映り、それをアイデンティティと呼ぶのだろうけれど、両側から無限に写り込む自分自身に陶酔しているだけで、本質は何一つ明確になっていない。その代償は、閉塞感や狭苦しさである。
 好き嫌いのはっきりした人は付き合いやすいけれど、曖昧領域での精神活動の多い日本文化内では、全体的な良さを活かすことなどできない。

 

 

【「Fide sed qui Vide」】
 「Fide sed qui Vide」 というラテン語の知恵。キーワードは二つ。Fide (フィデ=信用せよ)と vide (ヴィデ=見ろ)。 「信用するのはいいが、相手をよく見極めろ」 という助言だ。ラテン語が不得意な場合、この肝心な二つの単語を並べ、「fide ・・・ ただし ・・・ vide」 というふうに、チャンポンにして記憶するのもいいかもしれない。(p.56)

〈左多里のつぶやき〉
 「Hi - Fi」 の 「Fi」 は Fidelity (忠実性) 
 「Video」 は 「Vide」 からきているのだとか。
 「Hi – Fi Video」 とは 「忠実性の高いビデオ」 のこと。
 あれ? こっちの方が覚えやすいかも・・・。(p.58)
 まったく。

 

 

【愛するのは】
 2001年9月11日、著者はたまたま貿易センタービルの近くにいたという。
 あの事件の後、僕は 「愛するのは生きることになれているからではない。愛することに慣れているからである」 というニーチェの言葉を思い出していた。
  ・・・(中略)・・・ 。
 僕は若いとき、自分が生きているということに対して、特別に感謝の気持ちを抱いてこなかった。「感謝すべき」 とたびたび人に言われても。どうせなら死ぬより生き続けたい、くらいのことは思っていたかもしれないが、命を愛していたかといえば、違うと思う。命を愛するようになったのは、大人になってからのことで、ニーチェが言うように、愛に慣れるようになってからだ。さらに厳密に言えば、「愛すること」 に慣れてからだ。誰かに愛されている人も、もし死ぬかもしれないような体験をしたら、「愛されているから死にたくない」 と思うかもしれない。しかし、「誰かを愛している」 と言える人なら、死に対する抵抗、そして生きることに対する願望はより一層強いものになるだろう。
 人間は皆、子どもとして出発し、両親、家族をはじめ、周りの人に愛されながら大きくなっていく。しかし、命を本当に愛するようになるのは、自分から愛せるようになり、さらにどうしても愛し続けたいと思うようになってからのことだ。そんな気がする。(p.111-112)
 「誰かを愛している」 と言えない状態の人は、生きる意味を実感できない。人生の目的が見つからない人でも、愛する対象があればまだしも、無いならとことん無意味と感じながら人生を過ごしていることだろう。
 歴史上に現れた類稀なる聖人ならまだしも、「愛する対象は人類です」 などと言っている青年がいたら、数年の後には間違いなく空走状態の人生になっていることだろう。我々凡人は、聖人のような気高い生き方を安易に真似るべきではない。
   《参照》   『ジョン・レノンを信じるな』  片山恭一  角川書店
            【 「愛」 というのは、世界認識に近いのかもしれない】

 ニーチェは、「存在そのものが愛である」 とまで表現してもいるけれど、このような認識は、哲学的次元のものであって、生活次元の認識ではない。
   《参照》   『愛は愛をも超えて ニーチェの恋愛論』 白取春彦 サンマーク出版
            【本題:ニーチェの恋愛論】

 真摯な哲学や文学と言ったものは、高次元世界の在りようを写し出してはいるものだけれど、自分自身の魂がその高次元に基を置いていると揺るぎなく確信できていないのならば、この地上において漂流を抑止すべく、具体的に人を愛するべきである。

 

 

【セマー】
 トルコのアナトリア地方にあるコンヤに生きたペルシャ人思想家・ルーミーの詩が言及されている。
 ルーミーの詩を読んでいると、「宇宙は愛で満ちている」 というようなメッセージが多いためか、彼の言っていることに反論しようにも、あまり反対する余地がないように思う。・・・(中略)・・・ 。
 ルーミーはもうこの世にいないが、今でも彼を慕う人たちはいる。イスラム神秘主義 「スーフィー」 の一派、トルコを拠点とする 「メヴレヴィ教団」 である。 「セマー」 という舞いをすることで有名だ。 「セマー」 は、「スーフィーの旋回瞑想法」 や 「スーフィーの旋回舞踊」 とも呼ばれている。(p.125-126)
 禅宗などが行っている座禅も瞑想の行法ではあるけれど、これは静的瞑想法。セマーは動的瞑想法である。
 近年の若者達は、仏教的な “悟り” などという言葉に囚われず、また、座禅のための窮屈な姿勢を好まず、もっとダイナミックに宇宙と一体化すべく、音と光の波動に満ちた空間で動的瞑想法に類似した効果の得られるライブ・コンサートなどに蟻集するのだろう。
   《参照》   『人体と宇宙のリズム』 ルドルフ・シュタイナー (風濤社)
              【踊りと体操】

 ダイナミックな体動を通じて宇宙と一体になり、 「宇宙は愛に満ちている」 という体感が得られるのなら、それはそれで素晴らしいことである。

<了>
 

  小栗左多里・著の読書記録

     『ダーリンは外国人2』

     『英語ができない私をせめないで』

     『ダーリンの頭ン中』