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 最近、小説を読んでいても、心が読書向きになっていなくて、それぞれの小説の世界になかなか入り込めない。この小説に関しても、序盤はいけそうに思えたけれど、中盤以降からやや空回りぎみに滑ってしまった。それでも読書記録を残す気になれたのは、学生時代に読んだ本がモチーフになっていたから。
 ジョン・レノンと 『ライ麦畑でつかまえて』 の主人公、ホールデン・コールドフィールド。この二人が小説のモチーフになっている。

 

 

【ホールデン・コールドフィールド】
 ジョン・レノンを撃った男は、警官が駆けつけたとき、D・J・サリンジャーの 『ライ麦畑でつかまえて』 を読んでいた。犯行のあとも、この男は、同書を読んでもらえば自分のやったことの説明がつくと陳述したり、自分はホールデン・コールドフィールドになりたかったと述べている。世の中のインチキを告発しつづけたホールデン。ジョン・レノンを撃った男は、この一人のロックスターのなかに、いったい何を見たのだろう。   (p.95)
 私が、実際にこのニュースを聞いた当時、ホールデン・コールドフィールドがヒットマンという実行者になりうるという心理的な繋がりが分からなかった。
 『ライ麦畑でつかまえて』 の中のホールデン・コールドフィールドは、世の中のイカサマ野郎や偽善に対して脱力というか放心気味に嘆いていただけではなかっただろうか。最後の場面では、その名前が象徴するように、氷結してしまっているかもしれない湖に生息していたはずの白鳥のことを、漠然と案じているような記述によって、ホールデンの心理を描写していたと記憶している。
 “全面的に凍えきった世界 (ホールデン・コールドフィールド) には白鳥 (純粋な魂) が住む場所はない・・・” そんな象徴的な印象である。ホールデン・コールドフィールドは世界に対して働きかけるような性格を持つ人物ではなかった。世界中の偽善を自らの課題として引き受けてその重圧に耐えようとする強靭な知性も意思も持ち合わせてはいなかった。ただ、言葉として吐き出すことで自らの心の清らかさ・純粋さを反照させていたがっているだけだと思いつつ本を閉じたことを覚えている。そのホールデンがどうしてジョン・レノンに対して引き金をひくのか?
 だから、この小説のタイトルの意味するところが解せない。しかし、実際の犯人がサリンジャーを語っていたという話自体が事実かどうか、という疑問もあるし、要は、誰が何を信じてどう解釈しようがどうでもいいのである。

 

 

【 「愛」 というのは、世界認識に近いのかもしれない】
 自分が誰とも結びついていないと感じた。誰とも結びついていないから、現在が希薄だった。未来を信じることが出来なかった。ただ過去だけが確かで、リアルだった。そこにはいつも玲がいた。かつてぼくは玲を通じて世界と結びついていた。一般的に信じられているように、「愛」 というのは慈しみの感情ではなく、世界認識に近いのかもしれない。その人を通じて、いま自分が生きている世界を瑞々しく感受する。自分が世界の一員として存在していることを生々しく実感する。そのような確固とした意識のことかもしれない。 (p.96-97)
 この小説は 『セカチュウ(世界の中心で愛を叫ぶ)』 に先行する作品だという。この部分の記述を先に読んでいたら、映画で見た 『セカチュウ』 のモチーフをもう少し深く感じ取っていたかもしれない。
 ところで、この認識における 「愛」 の欠如こそが 『ライ麦畑でつかまえて』 の中のホールデン・コールドフィールドそのものなのだと思う。身近な 「愛」 を通じて世界に繋がらないと、純粋な魂が看破した偽善の世界は、認識実態としての 「全面的に凍えきった世界」(=ホールデン・コールドフィールド) になってしまうのである。大地が凍ってしまったからといって 「白鳥」 (=純粋な魂) が飛び続けようにも体力には限界がある。人は 「愛」 なくして生きられるものではない。人を愛したことのない白鳥は、体力が尽きる前に是が非でも氷結していないランディング地点を探し出さなければならない。

 

 

【「愛」 によって、世界認識を色濃くした者の生き方】
 著者は、人を愛した経験がある主人公をして以下のように語らせている。(なお、『ライ麦畑でつかまえて』 の原題は 『 The Catcher in the Rye 』 、直訳すれば、「ライ麦畑のつかまえ役」 である)
 ぼくは 「ライ麦畑のつかまえ役」 になどなろうとは思わない。ぼくがつかまえたいのは自分自身だ。絶えず動いて止まない僕自身だ。狡猾な現実と対等に渡り合い、何ものによっても籠絡されることのない、自由で生産的な 「ぼく」 という場所だ。ぼくは変わろうと思う。変わりながら、より純粋なものになっていこうと思う。ふてぶてしく純粋になっていこうと思う。純粋さというのは、誰もが一生のうちに一度はかかる麻疹みたいなものだ。失われていくものと考えて守り抜こうとすれば、13歳のままで自分を完結させるしかない。その手段が自分を殺すことであっても、他人を殺すことであっても同じことだ。  (p.146)
 著者が、この小説のタイトルを 『ジョン・レノンを信じるな』 とした理由の一端がこの記述から分かる。
 『ライ麦畑でつかまえて』 の中のホールデン・コールドフィールドは、ダサイ人物でからっきしもてなかったし、人を愛したことのない人物だったはず・・・・(記憶違いでなければ)。 「愛」 を経験していないと、希薄の究極としての自殺はありえても、他殺などゆめゆめ思いつかないはずである。世界認識を欠くゆえに、ただただありうるのは退嬰的に彷徨う希薄な精神だけである。・・・・・・・。堂々巡りのブログを書いてしまった。
 この小説のポイントは、“ 「愛」 というのは、世界認識に近いのかもしれない” ということ。これである。
 
 
<了>