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 古代人の考え方から、日本人を探っている。その時代を生きている人々の認識(範囲)こそが、その時代の世界そのものである。現代まで続いているものと、あまりにかけ離れてしまっているものとがある。

 

 

【ピカソの絵と 『和泉式部日記』 は共通する】
 主人公の和泉式部という人間が、物語のある部分では 「私」 として登場し、別の部分では客観的な第三者として登場してくるのである。・・・中略・・・。「私」 「あなた」 「彼(彼女)」 というような固定した捉え方をしていない、と考えるべきである。・・・中略・・・ 『和泉式部日記』 は、そういう書き方である。
 ピカソも同じである。視点を自在に動かすので、鼻が横向きになったり、目が上向きになる。一つの視点から見る必要などない、というのがピカソの考え方だ。 (p.36)
 『ゲルニカ』 は、私にとっては専ら、“精神の錯乱” 的な表象に思えていたから、『和泉式部日記』 との共通点としての、“視点の不同一(主客の不分明)” 的なこの解釈は、分かるけれど、なんかしっくりこない。
 シュールレアリズムと日本人古来の発想法という枠組みでは、以下のように記述されている。
 いろいろな運動が試みられたが、その一つにデペイズマン(視点移動)という運動がある。例えばエッシャーのだまし絵などがその一つで、・・・中略・・・。(p.34)

 

 

【着物は魂を包むもの】
 一般的にいっても昔の人々には、人間の魂は着物に包まれていると考えられていた。おそらく、魂は肉体の中に宿っていて、その肉体を包むのが着物なので、魂が着物に包まれていると考えたのであろう。
 そのせいか、万葉時代の男女は下着を交換した。下着が魂を包んでいるからであろう。・・・中略・・・。昔はゴホウビに天皇は着物を与えた。これも着物が魂を包んでいると考えたからである。 (p.51)
    《参照》   『美しい日本語の風景』  中西進  淡交社
                【おさがり】

 

 

【金門(かなと)】
 『万葉集』 には、女が恋人を送り出す歌がじつに多い。万葉時代では、恋人を見送る場所は門であった。だから、門は恋の情感が集約された場所である。
 門と言うのは、当時、恋の境界線だった。門にはいるのを許されたら、恋が許されたということである。恋が許されなければ、門の中に入るのを拒否された。
 『万葉集』 などに 「金門」 という言葉がある。これは、金属製の門という意味ではない。心理的になかなか入れない頑丈な門という意味である。 男は、その頑丈な門を開けてもらわなければ女に会えない。
このようなわけで、門では別れの美学が繰り広げられる。
 ベッドの中で亭主を送り出す現代の妻には、こういう感覚はまったくないだろう。早朝から会社に出かける夫を、せめてバス停まで送れないものか。 (p.63)
 女性に ”しかと” されちゃうと、 “かなと” になっちゃう。
 最後の文章、書き映し間違えではない。 「せめて玄関まで」 でも 「せめて門まで」 でもなく、確かにこう書いてある。

 

 

【妹兄(いもせ)】
 昔の人は、人間関係をつくるとき、「血」 を非常に意識した。だからこそ、昔の人は兄と妹という、同じ血を分かち持つ同士が結婚したのである。その名残は古語にある。
 古い日本語では、妻のことを 「いも」 といった。そして自分より若い女のきょうだいを「いもうと(妹)」 という。これは 「いも・ひと」 という意味だから、妹は 「妻である人」 ということだ。つまり妹は本来、妻なのである。
 反対に夫のことを 「せ(兄)」 と呼んだ。頼るべき背を持つものという意味だろう。(p.76)

 

 

【万葉時代から平安時代にかけての 「愛」 の変遷】
 万葉時代、男女の愛にはロマンがあった。ときめきがあった。ところが、平安時代になると、愛は女にとって苦しいものとなった。男を愛すれば愛するほど、愛は絶望的になっていった。
 どうしてこう違って来たのか。 (p.85)
 それを解くキーワードは、平安時代の物語の書き手が記述している 「よのなか」 という言葉。

 

 

【「よのなか」】
 平安時代の女性における 「自己の環境」 とはどういうものか。それは自分と夫との関係である。早い話が、当時、「よのなか」 といえば男女の仲だった。
 当初、私はこのことが理解できなくて混乱した。社会を意味する言葉が、男女の仲を意味するとは想像できなかったからだ。 (p.86)

 

 

【永遠への信頼としての 「愛」 を失った平安人】
 これ(『蜻蛉日記』)は、まさしく一夫一婦制の中に押し込められ、そこを唯一の 「世の中」 として生きてきた女の絶望的な愛であった。
 この絶望はどこからきたのか。それは 「世の中」 である。
 そこに神は存在しない。ただ存在するのは男と女だけである。そして、男も女も、人間のエゴそのものをむき出しに生きている。この姿は、身を 「神」 の手にゆだね、永遠への信頼としての愛に生きた万葉以前の人々からは、あまりにかけ離れている。愛が永遠から切り離され、人間だけの所有になったとき、愛の絶望が起こってきたのである。(p.87)

 

 

【永遠の愛を確信する手がかり : 「うつし」 】
 永遠の愛を確信する手がかりは、「うつし」 である。
 私は、日本人の考え方のなかに、「うつし」 と呼ぶべき思想があると思う。「うつし」 は、漢字で書くと写、映、移などと区別されるが、もちろん、日本語の 「うつし」 はすべてを含んでいる。だから、「写真で写す」 フィルムの映像は、本物が移ってきたものにほかならない。
 写真と実物は別物ではないのである。 (p.90)
    《参照》   『人生の錬金術』  荒俣宏・中谷彰宏 メディアワークス
               【美呪術】

 

 

【愛を絶望から救いだす術】
 紫式部は、この 「うつし」 の構造を、「影」 とか 「人形(ひとがた)」 とか 「形代(かたしろ)」 といった言葉を使って表現している。  (p.91)
 すなわち、光源氏にとって藤壷は母親の 「形代」 であり 「影」 であって、それは、とりもなおさず、光源氏に対して母親のはたらきをする存在なのである。母親の代わりではない。(p.92)
 平安時代の人々は、愛を人間だけのものにしたため愛の絶望を味わったが、一方では、「うつし」 の中で、現代風にいえば、代わりの者をつくることによって、愛を絶望から救いだしていたのである。 (p.93)
    《参照》   『美しい日本語の風景』  中西進  淡交社
              【うつせみ】

 

 

【怒りは人間を卑しくする】
 平安時代の絵巻物などで貴人を描く場合、一つの約束事がある。
 それは、「引目鉤鼻(ひきめかぎばな)」というものである。貴人を描くときは、目は線を引いた形にし、鼻は鉤形にゆったりと描け、という意味だ。それに対して庶民は、まさにぎょろ目に団子鼻である。貴人は大日如来のように描き、庶民は不動明王の姿に描いたのだ。
 当時の人々が、怒りをどのように考えていたかが分かる。 (p.102)
 あまりにも神霊界の基本的な知識のない人が誤解しないように書いておくならば、不動明王の憤怒の相は、真・善・美をそこなうものに対して向けられた憤怒の相あって、いわば大愛の中のひとつの相である。決して卑しいものではない。

 

 

【命とは霊魂のこと】
 万葉時代では、「命」 の枕詞は 「玉きはる」 である。「玉」 とは霊のことだ。円いものをすべて 「霊(玉)・たま」 と呼んだ。ボールも霊魂も 「霊(玉)」 である。
「きはる」 という言葉に漢字を当てはめれば、「極」 がもっとも近い。もちらん、漢字は中国のものなので、ぴったり一致するわけではなく、少しのずれはある。これはどの言葉にもいえる。
 だから、大和言葉は大和言葉として理解しなければならない。わざわざ漢字に置き換えハハーン、分かった、などと考えるのは本当はよくない。
 それはさておき、「きはる」 は、「きわまる(極まる)」 の意味である。だから 「玉きはる」 とは、霊魂がきわまるという意味で、「玉きはる → 命」 とは、霊魂が極まる命、ということになる。(p.143)
 葬式の 「葬」 の字も、死の上下は草を意味しているように、古代人の死んだ体は、草の間に放置されるようなありさまだった。それは霊魂の実在を信じているからこその弔い方なのである。
 但し、現代人が、自然に帰すという意味合いで行っている散骨というやりかたは、古代人の発想の中にはありえない。
 古代人にとって、いや、中世の日本人にとっても、死ぬのは 「普通のこと」、 生きるのは 「予想外のこと」 だった。 
 著者は、死のイメージに重なる日没の西方を 「精神方位」、 誕生のイメージに重なる日出の東方を 「身体方位」 と呼んでいる。つまり、常に 「死」 が先にあっての世界認識が基底である、という論調である。

<了>
 

  中西進・著の読書記録

     『美しい日本語の風景』

     『古代日本人・心の宇宙』

     『日本人の忘れもの』

     『日本人とは何か』

     『狂の精神史』