イメージ 1

 対談形式ではなく、両者の発言が1ページ毎に断言的に言い切られている。それゆえの歯切れ良さがあって良い。教養あふれる内容の、面白い本である。

 

 

【文化霊】
中谷:
 「びっくりオンチ」 の人は、そこに幽霊が立っていても知らんぷりして通り過ぎるのです。
 安倍晴明が 「ここにも式神がいた。ここにも神がいた」 と言っているのに気づかないのです。
 カーテンの柄は、一種の霊を見ているのです。
 文化力とは、霊を見ることができる能力なのです。  (p.32)
荒俣:
 びっくり感覚が発達している人は、世の中がなんでも面白く見え、楽しい。
 あらゆるものに霊を発見しているのです。      (p.35)
 そう、貴族文化が最も栄えた煌びやかな平安時代は、安倍晴明を代表とする陰陽師たちの時代でもあった。
 

【美呪術】
中谷:
 占いのできる安倍晴明はモテたはずです。
 「タイタニック」 のディカプリオのように、相手の絵を描いてあげる人はモテます。
 肖像を描くというのは、呪術的要素が大きいのです。
 学校も、「美術」 や 「図画工作」 を 「美呪術」 と言えばいいのです。
 「今日の1時間目は陰陽道、5時間目は呪術の時間です」 となると、もっともっと勉強したくなります。
 (p.56)
 「美呪術」 という語は最適かも。養成中の呪者はあるランクを超えるまで写真は決して公表しないものである。魔界との強烈な呪力争いに勝てるようになるまでは、そうして自身を守らねばならない。「美呪術」 はそれほどに強力だからである。

 

 

【国語という「呪文術」】

荒俣:
 「国語」 は 「呪い学」 「呪文術」 という感じです。
 まさに言霊です。
 文化はもともとそういうものです。
 今の学校は、ほとんど言霊を学ぶところまでいたりません。  (p.58)
 漢字はパワーが強いです。
 道鏡は、漢字をそのまま呪術に使っていました。
 漢字を紙に書いて飲込めば体も治ってしまうような呪術がたくさんあります。
 ラブレターは呪文の一番重要なスタイルですから、ストレートでないといけません。  (p.61)

 ラブレターも呪術の一つ・・・。なら・・・真剣に書かなくっちゃね。
 平安時代、男女が会うよりも、和歌という恋文のやり取りを重視しました。
 和歌はモノに見立てて暗号として相手に伝えているわけで、ダイレクトに表現していない。
 ですから、暗号の意味が分からなかったら、返事のしようがない。
 意味が分からなくて逢瀬ができない人は、知性のないただのヤボ天となります。
 経済がトップにある時代には、それはただの知性のひけらかしとしてさげすまれ、イヤなヤツだと思われます。
 でも、文化が力を持つようになると、隠された意味の方が大事になるのです。    (p.186)
 平安時代は、現在より文化力に勝っていた・・・少なくとも恋文に関しては。
 ラブレターを書くのに、呪術力としての真剣さだけじゃダメで、知性も必要。
 その二つを繋ぐのが “言葉” である。

 

 

【言葉による所有】
荒俣:
 呪術的な観点から見ると、勉強はある意味ではモノを使う方法です。
 言葉を覚えることはまさにそうであり、覚えるか覚えないかで大きく違います。
 ・・・(中略)・・・。
 モノに名前をつけることは、非常に重要なイマジネーションの入り口です。
 名前が付いた時点で、その9割は手の内に入ります。
 妖怪もやたらに名前をつけて、どんどん自分のコレクションに入れるのです。 (p.65)
 勉強している時も、わけがわからなくても、いったんその対象が指す言葉や名前を自分の中に飲み込んでしまうと、その範囲を自分のコレクションに取り入れられます。
 それは昆虫採集とたいして変わりません。
 つまり自分で名前を知ると、頭の中に位置が与えられるからです。
 これは標本箱に入れたのと同じです。
 これを考えると、たくさん新しいものに出会える10代のころに自分は非常に空しい灰色の受験生活を送っているなどと思うのは、大いなる見当違いといえるかもしれません。
 今、大流行しているハリー・ポッターという魔術の生徒の話でも、魔術師になる訓練は名前を知ることに始まっています。   (p.68)
 この記述内容は自分自身の経験からも良くわかる。
 ボキャブラリーが貧困な人というのは、つまるところ呪術師ではないし文化人でもないということになる。
 モノの名前をたいして知らない人ほど、偏狭な人生観のままに、即物的な人生を送ることになる。

 

 

【バカ術】
中谷:
 バカになる訓練は学校ではできません。
 学校は 「利口になる訓練」 をするところです。
 学校は筋道を教え、矛盾は排除する方向にトレーニングしていきます。
 うまいぐあいに、会社は 「バカになる訓練」 をするところです。
 「バカになる能力」 こそ、文化力なのです。                       (p.106)
 日本企業で働いている韓国人は、飲み会で、ドタバタ的アホの競演をしている日本人に遭遇して、“信じられない” という顔をしている。儒教道徳的世界観を学校で植え込まれた韓国人は、日本人の 「バカになる能力」 という文化力がからっきし理解できないらしい。科挙制度で仕切られた上位階級に憧れ続けるあまり 「バカになる能力」 を全く評価できなくなってしまったらしい。気の毒なことである。
 もっとも、学校の先生と警察官は、日本人であっても 「バカになる能力」 はあまりないだろう。彼らに日本人本来の文化力を期待してもムダである。韓国人と日本の公務員は、お友達としてうまくやって行けるかもね。
     《参照》  『柔構造のにっぽん』 樋口清之  朝日出版社

              【直会(なおらい)】

 

 

【世界観】

荒俣:
 尾崎豊やX-JAPANは、出したメッセージがわりと単純だから、それを敷衍させても新しい力にならない。
 ちょっとすねて生きるとか、メッセージと感性は出しているけれども、世界観や哲学が見えないからです。
 尾崎豊は、今はつらくても、みんな愛し合おうよということまでは言ったけれども、愛し合った先に何をつくるかということがない。だから、かぶれることはかぶれるけれども、その次の新しい建設になかなか向かえない。
 それは19世紀と20世紀の大きな違いだと思います。   (p.227)

 言えてる。
 愛を語る人々は、愛自体が目的になってしまっていて、具体的な世界の将来ビジョンを語る人々が少ない。
 自分の人生を自分自身と他者の向上のためにより良く生きようとして愛を語るのだろうけれども、全ての人々が、そのような人々と同じ思念・同じ調べで歩んでいるのではない。だから、遅れて歩み来る者たちのために、世界は良き方向に向けて調えられねばならない。地球環境問題を含め更に人類共生を具体化する世界観は必要なのである。洞爺湖サミットに集う世界各国の指導者達に、具体的な将来ビジョンを提示させられるか否かを握っているのは、各国の国民ひとりひとりの愛に満ちた世界観なのかもしれない。 
 
<了>

  荒俣宏・著の読書記録

     『0点主義』

     『図像学入門』

     『王様の勉強法』

     『人生の錬金術』

     『なつかしのハワイ旅行』