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 さまざまな図像に関して、視点をズラして見たり、文化的な差異による意味を読み解いたりしている。

 

 

【絵を寓意図として読んでいた西洋】
 西洋人というのは、かなりブキッチョであります。たぶんその原因の一つは、彼らが日本人のような、あるいは中国のような漢字を使っていなかったせいじゃないか。漢字を使っていなかったために、「絵」と「記号」の区別をかなりはっきりとつけていて、しかも記号のほうに重点を置いていたふしがあります。
 我々が使っている漢字のほうは、絵であって、なおかつ記号でもあります。・・・中略・・・。我々は、文字をあくまでも手書きの絵として最初にアウトプットしたいのだ、ということができます。
 特に書道にはそれが顕著でしょう。あれは字を見ているんだか絵を見ているんだか、そのへんがひどくあいまいです。ですから東洋の絵には、やたらに画賛だとか詞書(ことばがき)だとかいったように、文字と組み合わされる例が多い。そういうあいまいな、あるいは両義的な世界をずっーと自然に生きてきた、我々はそういう民族です。で、西洋人はそのへんを、絵は絵、字は字だと、くっきりわけていた。だから、西洋には区切りとしての額縁が発達するんですよ。(p.34-35)
 西洋人は、絵は絵として文字とは切り離したのだけれど、その絵には寓意的な意味合いが託されていた。西洋に共通する文化的基盤となったギリシャ神話やバイブルの物語がモチーフに用いられていたのである。
 それらの絵画を見た日本人は、
 ところが面白いことに、日本人がこういう絵を見たときに感動したのは、それがあまりにもリアルだという部分でした。その絵に隠されている寓意なんて、吹っ飛んでしまったわけです。平賀源内なんかも、こういう植物の寓意図をいくつか手に入れましたが、そのリアリティーのあまりのすごさに、リアリズム・アートのお手本として使うようになります。(p.46)

 

 

【西洋の寓意:魚】
 魚がどういう意味を持っているか。これは、イエス・キリストそのものなんです。ジーザス・クライスト、救済者という言葉をギリシャ語にして頭文字をとると、「魚」 という意味のギリシャ語になる。こういう語呂合わせによって、「魚」 はかなりむかしから、キリスト自身のシンボルとされてきました。 (p.48)
 占星術ではキリスト生誕からの2000年期を双魚宮として解釈しているけれども、美術も占術も意味の基盤にギリシャ神話やバイブルを共有している。
 そして、時代を遡れば溯るほど現実と夢の境界はないものと意識されていたから、美術は呪術でもあった。
   《参照》   『人生の錬金術』  荒俣宏・中谷彰宏 メディアワークス
               【美呪術】

 

 

【 「鮭図」 高橋由一・画 】
 鮭は魚ですから、西洋の寓意図を見慣れた人は、「これはキリストだ」 というふうに見ます。しかも半分身を切られていますから、受難の相です。その上、ぶら下げられている。これは見まごうべくもなく、十字架にかけられたキリストでして、モロにキリストの処刑の図です。肉をゴリゴリ切られて、哀れな姿をさらしているキリスト。当時日本にやって来た西洋人がもしこの図を見たら、みんなひれ伏して涙を流したに違いない、というような寓意図なんです。(p.50)
 中学の美術の教科書にこの絵は掲載されていたけれど、寓意図としての説明など決してなかった。ということは、日本の学校で教える美術は「単なる描写法のみ」ということになるだろう。文化的霊学的背景を語らない芸術など、まったくと言っていいほど意味がない。

 

 

【図像崩壊】
 物質過程の波動に狎れてしまった人類は、実写リアリズムの底辺に落ちてしまったけれど、霊性を喪失した代わりに、脳の機能をつかって絵画を図像崩壊させ、あえて無意識を引き出すなど、絵画を、ヴァーチャル的手法を用いたアートへと変容させつつある。
 エッシャーはかたちを崩壊させ、スーラは色を崩壊させた。あらゆる図は、あるルールを壊すことによって、不思議にも、ゼロの状態に戻ることがわかった。(p.63)
 彼(デューラー)は、それを無意識のレベルからどんどん顔ができるように工夫し、意識的な絵として描く訓練をしました。(p.69)
 こういうことが基本にあったから、西洋でコンピュータが発達し、CGが出てきて、やがてヴァーチャル・リアリティーのようなものに発展していったんだろうと思います。西洋はもうむかしから、ローマあたりに行ってみればわかるように、街中どこでも、すべて見せかけでできています。いかに大きく見せるか、壮大に見せるかということに、建築上の工夫をこらしていたわけです。(p.72)
 ディズニーランドのシンデレラ城もこの建築テクニックで作られている。錯視機能を利用すれば、塔の上部をやや細くすることで遠く高く見えるのである。
 これは逆の視点から言うと、我々が錯覚を起こすということは、我々の周りの現実が崩壊して、現実に虚構が入りまじる状態を作り上げている。(p.72)
 世界には元々現実と虚構が共存している。脳は本来それらの弁別をしていないのにもかかわらず、現在の人類は現実という共通認識(共同幻想)の下で暮らしている。
 
<了>

  荒俣宏・著の読書記録

     『0点主義』

     『図像学入門』

     『王様の勉強法』

     『人生の錬金術』

     『なつかしのハワイ旅行』