イメージ 1

 タイトルが意味することに興味があって読んでみた。本書に記述されている生き方は、若いうちに読んでおいた方がいい。社会に対して斜に構えているような読者なら、おのずと嵌るはず。2012年5月初版。

 

【「心のマジック」を伝授】
 この本は、試験勉強や会社での企画提案、そして自分には手に負えそうにない課題を背負わされたとき、それを苦痛と感じさせなくさせる「心のマジック」とでもいえそうな方法を伝授することが、目的と言える。(p.1)
 どういう心構えで人生を生きるかが基本だけれど、想定外の事態に遭遇した時どう対処するかが分岐点。著者が実際に遭遇した場面における「心の使い方」も書かれている。

 

 

【「櫟社(れきしゃ)の散木」】
 中国の名著『荘子』に「櫟社の散木」という話がある。この話を、・・・中略・・・梅棹忠夫さんから聞いたとき、私は、「ああ、これはボクが目指す生き方だ!」と感動したことを、今も覚えている。
 その話のポイントは、こうだ。大工の名人が弟子を連れて材木を探す旅に出た。すると、ある村で神木として尊ばれている巨木に出会った。弟子がこの木を使おうというと、名人は答えた。あの木は役に立たないからこそ巨木になれたのだ、と。(p.25)
 これを読んで、事任八幡宮 の境内全体を覆うようなウルトラ大きな「楠の木」を思い出してしまった。
 使いやすい木なら「材」ないし「財」になるから、すぐに切られてしまう。ところが、使いにくい「散木」だから長いこと切られずにすみ「神木」になれた。
 使いにくい個性のある人は、「人財・人材」ではなく「人罪」であるかのように見なされ、平均的人間が優遇される会社・社会からは避けられる。しかし、平均的ではないからこそ“凡庸に沈むことのない人生”を生きることができるとも言える。
 日本社会では多くの人々が、人並であることや平均的であることを望んでいるらしいけれど、欧米社会では個性を示せない人間など、役立たずと見なされるだけである。
   《参照》  『スタンフォードの未来を創造する授業』 清川忠康 (総合法令) 《前編》
            【「他人と違うこと」を評価し,「個性」を尊重する文化】

 

 

【タイトル解題:『0点主義の勉強法』】
 現代社会において、勉強とは何よりも世俗的な成功という目的を達成するための一手段として位置づけられているのだ。
 だが、本来、勉強とは人生を豊かで楽しいものにする血の通った営みのはずだ。仕事も遊びも勉強になるのなら、勉強とは生きることそれ自体ということになる。毎日ごはんを食べたりテレビを観たり、仕事をしたりすることが勉強になる、そういうものだ。
 そんな勉強法を、本書では「アラマタ式0点主義の勉強法」と名づける。(p.26)
 本書では、上記のよう書かれているけれど、チャンちゃんは、「アラマタ式0点主義の勉強法」を以下のようにとらえている。
 荒俣さんの興味の範囲は広範だけれど、大枠でいえば「浮世離れした世界」に視点が向いているといえる。『帝都物語』にしても、この世(浮世)とは異なる領域を対象としている。極端な言い方をすれば、意識のベースが異次元を向いている。そのような人は、基本的にこの世的な成功には興味が向かないはずなのである。つまり「カネ(成功)のために生きることに興味がない」ないし「そんなのはマッピラ」と思っているはずである。
 今の時代、この世次元の社会意識に則した生き方にそぐわない人は、たくさんいるはずだけれど、生まれてこの方、洗脳され続けた「社会意識」という意識の枷を脱することができていない中途半端な人が殆どだろう。
   《参照》  『アセンションの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド)  《前編》
            【社会意識(コントロール・グリッド)という檻から出る】
 荒俣さんは、早い段階で「散木」の生き方を「是」と認識していたらしいからいいけれど、その気づきが遅ければ遅いほど中途半端ないし宙ぶらりんな生き方になってしまう。

 

 

【「7歳で心が朽ちた」】
「モテる」ことをきっぱりとあきらめたせいで、何の迷いもなく、私は自分の好きな勉強に邁進することができたのだ。・・・中略・・・。
 が、じつはこうした傾向は7歳ぐらいからあり、その当時すでに世の中の評価を気にしたり、人に良く思われようと考えたりすることは、すべてやめた節がある。これを称して「7歳で心が朽ちた」と自分では思っている。
 要するに、自分に期待するのをあきらめ、老人になったわけだ。(p.195)
 荒俣さんは、7歳にして既に、悟りを開いていた。というか、社会意識の外にとっとと出ていた!
 だったら、梅原忠雄さんに出会って「櫟社(れきしゃ)の散木」に納得したなどというのは、後付けも後付け、ウルトラ後付けじゃん。
 ところで、荒俣さんは、自分自身が早々と老人になったことで、老人との付き合いが楽しくなり、当時60代の英文学・平井呈一先生に出会い、中学3年生で英文作品を原書で読むようになっていたという、常軌を逸した天才ぶり話が、p.227 付近に書かれている。

 

 

【「おしっこ」で危機を脱出】
 昭和37年に大阪―愛媛便で起きた出来事(原因不明の故障により離着陸用の脚が動かず着陸不能)だが、そのとき、パイロットはどうしたか。オイルの代わりに何とおしっこを使ったのである。脚を動かす油圧の機能は・・・中略・・・、液体ならその代役になれる可能性があると推察したからだ。(p.37)
 100人の乗客がこれに協力したとか。
 これを読んで思ったのが、有機農法の大切さを理解しながら、農地で耕作中に、「トイレに行きたくなったから家に帰る」と言っていた人間の実在。
 チャンちゃんは、世間の常識と言われる考え方を「それがどうした」と思っているような人間だから、おしっこは土砂降りでない限り、わざわざ庭に出て植木潅水に使っている。

 

 

【目の前に来たバスには乗ってみる】
 「自分の好奇心や関心、感性を預けられる対象」を見つけ出すことが、「0点主義の勉強法」の第一歩だと述べた。
 しかしながら、・・・中略・・・、好奇心のままに勉強したところで、そうそうおもしろいことにぶつかるチャンスはない。・・・中略・・・。では、どうしたらおもしろいことにぶつかるチャンスを大きくできるのか。
 まずは、
「宝探しをするつもりで、いろいろな対象に触れてみる」
 ことだ。目の前に来たバスには、まず乗ってみる。それが自分の関心のフィールドを広げるために効果的だということは、すでに歴史によって証明されている。(p.51)
 行き先がどこであろうと、目の前に来たバスに乗ってみることを、無っ鉄砲だとか蛮勇だとか言う人がいるとしたら、管理=保身第一の公務員先生くらいだろう。公務員先生は教科書にあることを何年でも壊れたレコードのように繰り返して教えているだけだから、知恵・知性に関しては一般ビジネスマンに及ぶべくもない。先生=優秀と勝手に思い込んでいる一般人とせいぜい同等クラスである。
 チャンちゃんが読んでいる本のジャンルは、平均的な本好き人より多いだろうけれど、それでもジャンルが固定化していることくらいはそこそこ自覚している。であるにせよ、それぞれの読書記録内で関連する内容が記述されている本をリンクしているもののうち5割以上は全く関係ないジャンルの本のはずである。
 「目の前に来たバスには、まず乗ってみる」を読書に当てはめるなら、「興味の有無にかかわらず、そこにある本は、読んでみる」ことに相当する。裾野が狭いようでは高い山にならない。
   《参照》  『世界を知る力』 寺島実郎 (PHP新書) 《後編》
            【本と本との相関】
   《参照》  『たかが英語!』 三木谷浩史 (講談社) 《前編》
            【ヨコテン】
   《参照》  『だから人は本を読む』 福原義春 (東洋経済新報社)
            【ジャンルは違っても同じ本質に行きつく】
   《参照》  『人生応用力講座』 日下公人 (PHP) 《後編》
            【「急がば回れ」の読書】
   《参照》  『「逆」読書法』   日下公人  HIRAKU
            【読書の縦糸と横糸】
            【逆読書術の ”奥儀” 】

 

 

【戦争と音楽】
 西洋では、早くから戦争に音楽を取り入れていた。軍隊が音楽と共に行進するのは、たんなる見世物ではなく、軍人に集団行動を容易にさせ、さらには見ている大衆の心を高揚させて一つの方向に導くためなのである。つまり、音楽はグループワークさせる機能を持つのだ。グレゴリオ聖歌に触れた信長に、そのような直感が働かなかったとはいえないだろう。(p.73)
 これを読んで、「マーチのCDをかけていると、やる気が出る」と猫の親分が言っていたのを思い出した。
 やる気喚起のために音楽が有効なのははっきりしている。クイーンの 『 We will rock you 』 が、スポーツの国際大会会場で流れているのはよく聴くし、この曲を開始前のモーメンタムとして取り入れている学習塾は幾つもあるだろう。
 生徒も先生のやる気のないまま、改善策を模索する気すらない公立学校は、休み時間に、『 We will rock you.』やマーチ系の音楽をガンガン流せばいいのである。ところが保身第一のタコ校長は、「前例がない」の定番一言で却下するのである。公務員頭は死がなきゃ治らない。

 

 

《後編》 へ