《前編》 より

 

【情報検索】
 記憶力というものは、年を経るごとに確実に低下する。
 学生時代、1週間で教科書を軽く1冊覚えるぐらいの、ものを覚える力に自信があった私も、還暦をすぎた最近では、必要な情報がなかなか思い出せないで困ることがある。・・・中略・・・。我が家には膨大な書籍や資料があるが、昔は何を探し出すにも5分でできた。今は3時間、もしくは一日かけても探し出せないこともある。(p.99)
 “博覧強記といえば、南方熊楠か荒俣宏か”と思っていたけれど、そんな荒俣さんでも年を経るとこうなってしまうらしい。
 今時の文系学生なら、チャンちゃんのこのブログのような読書記録を書いておけば、引用文献も明確で、卒論なんて楽勝だろう。本を読むのが本職の大学生なら3年で1000冊くらい読んで書くことなど当たり前に容易である。
 ブログ内を単語で検索することで関連著作はすぐに出てくるし、ネット上にアップしなくてもエクスプローラー内で検索は十分可能である。資料として必要なデジタル写真も、タイトルの次に検索用語をいくつか記述しておけばいい。数多の情報を扱うのが仕事のビジネスマンは、皆そうしている。

 

 

【アウトプットの意味】
 要するに、アウトプットは恥をかくほどよいということだ。私たちは、何かを表現したり発表したりする場合、完璧な内容であることを期する。それは自然な願望なのだけれど、完璧というのは非常に難しい。
 そうではなく、アウトプットを公表することは、多くの人に見てもらい、検証を受けることと考えるべきなのだ。間違いを指摘されれば大恥をかくが、それは内容を訂正できるチャンスでもある。
 人生なんて、死ぬまで恥のかき通し。失敗を気にしていても始まらない。(p.111)
 「正しいかどうか自信がないから、ブログに書けない」などと考えていたら、世界中でブログを書ける人なんていなくなってしまう。
   《参照》  『日本人をやめる方法』 杉本良夫 ほんの木
            【書評をやってもらうこともある】
 そもそも、ノーベル賞だって嘘八百の理論が受賞していたことだってあるのである。
   《参照》  『もっとウソを!』 日高敏隆・竹内久美子 文芸春秋
            【タイトルの意味】

 

 

【魚の絵に関すること】
 私は美術が好きで、よく美術書を眺めたり、美術館へ行ったりしている。そうやって古今東西のさまざまな絵に接し、メモを取っているうちに、私は二つの発見をした。一つは魚の絵に関すること、もう一つは近代西洋絵画における人体画像に関することだ。(p.133)
 『魚のように』という、坊っちゃん文学賞受賞作品を読んだ時、選考委員の中で、チャンちゃんが記述したような “タイトル解題” をしていた評はなかったと記憶している。どれも、「一瞬の魚影のような青春時代の想いを表現した」というような評ばかり。
 【殉教者】の中に書いたタイトル解題は、そこにリンクされている荒俣さんの著作を読んでいたからこそ思いついた内容である。
   《参照》  『魚のように』 中脇初枝 (新潮社)
            【殉教者】

 

 

【 “定説” ではなく “0点情報” 】
 私の場合の(テレビ番組出演における)自分らしさとは何かといえば、各項目に「どうでもいいようなトリビア情報」を加えることである。私はかつて平凡社で百科事典の制作にたずさわったが、このとき与えられた仕事は、まさにこういう役割だった。・・・中略・・・。そもそも百科事典は、「・・・である」と断言できる定説を書くものだった。しかし編集長であった 加藤周一 という達人は、それを捨てて、いわば0点の情報をできるだけ盛り込む方針を打ち出された。(p.143-144)
 例えば、鍵の項目なら、「金庫破りの歴史」を書き加えたり、奇譚や怪説など、事実と言えない話も盛り込んだのだという。それで、「・・・といわれている」という文末になったので、「といわれている係」とあだ名が付いたとか。こういうユニークな百科事典なら、一日中読んでいても面白いことだろう。
 そこそこ本を読み続けてきた人々は、どれを手にしても、代わり映えのない本ばかりであることにウンザリしつつ、新発見をこそ待望しているもの。“異分野の知識” や “定説とは言えないトリビア情報” の中に、スパークする素材としての可能性が潜んでいると知っているからこそ、それらを尊ぶのである。
 そもそも、定説に準じた答えのある問題しか出さない学校の先生に評価されるような子供たちは、大抵伸び悩むというのが定説。学校の先生から「箸にも棒にも掛からないウスラコンコンチキ野郎」と評価されていたら、「0点主義」に叶う逸材である可能性が高い。但し、読解力は能力発展の基礎だから、20歳までに読書の習慣が身に付かないようなら、可能性が高いとは言えない。

 

 

【どんなジャンルでも、2~3日したら・・・】
 大学卒業後に就職した水産会社、そのあとは百科事典の編集にたずさわるというふうに、私はこれまでいろいろな仕事に関わってきた。その体験からわかったことは、
 「どんなジャンルでも、2~3日やればその仕事はおもしろくなる」
 ということだった。水産会社での資材部での経験も、最初は嫌でしかたなかったコンピュータのプログラミングにしても、やり始めたら面白くなった。(p.187)
 自然に面白くなったのではない。自らリフレーミングすることで面白くなったのである。
    《参照》   『マンガでやさしくわかるNLP』 山崎啓支 (JMAM)
              【リフレーム=枠組み(フレーム)を変える】

 

 

【「生産的読書」と「非生産的読書」】
 私自身は、意識して批判的に本を読んだことはない。ただし、間違いと気づいた点はすぐにその内容を訂正できる柔軟さは必要だと思っている。
 また、こういうケースもある。それは批評家、専門家筋から酷評を受け、悪書のレッテルを貼られているような本を読むときだ。ダメな部分や危なっかしい部分をあらかじめ想定し、そのうえでその本が提供する「使える情報」を取り込む。そのように読むと、意外に反面教師になったり、ふつうのメディアでは語られない問題を発見することがある。(p.236)
 「使える情報」を取り込む目的の読書であれば、批判的な読書というスタンスはありえない。
 肯定的に読む ⇒ 楽しい   ⇒ 面白い発見がある    ⇒ 生産的
 批判的に読む ⇒ 楽しくない ⇒ ダメなところが頭に残る ⇒ 非生産的 (p.239)
 チャンちゃんもまったく同感。
 しかし、若年の作者が著した小説に対して、「ザケンナ!」とばかりに露骨な酷評を書いてしまったことがある。『蛇にピアス』『幻をなぐる』 である。これらは、若者の本離れを抑止するための、業界全体のヤラセ受賞作品であったことはハッキリしていたけれど、不埒かつあまりの内容のなさにブチ切レテしまったというのが正直なところ。

 

 

【地獄に落ちてなお学ぶ】
 地位のある人に多いが、年を重ねる間には、知識や経験の新陳代謝が必要だ。
 望まない変化に出くわしたとき、自分が楽にできるスタイルにこだわっていると、人生はそこで終わったも同然になってしまう。ましてや、どんな業界や専門にせよ、プロとして仕事をしているのなら、進歩し続ける責任がある。
 私自身、・・・中略・・・、60歳を越えるとなかなか身体がついてこなくなるが、地獄に落ちてなお学ぶ、その勇気と気力はいつまでももっていたい。(p.243)
 変化を受け入れ続ける態度を維持するのは、予想以上にシンドイものである。ビジネスを経験してきた人なら、そんなのは言うまでもないことだけれど、公務員や民間企業ビジネス経験のない人々の中には、「前例踏襲(=変化拒否)」一辺倒で人生を押し切るつもりの人々が多々存在している。「この変化の激しい時代に生きていながら、それじゃあ江戸時代じゃん!」と言われても、「それがどうした。文句あるか!」のような顔をする人々が、地方には結構テンコ盛りいたりするのである。
 「人生は、起きて食べて噂してウンチひってカネ勘定して寝るだけの繰り返し」と心得る人々が、群れをなしてその低迷する世界内で生きて行くのは自由だけれど、社会の発展という意味においては、そのような人間存在自体がデメリットであることくらいは自覚してほしいもの。
 ただ、そのような人々は、怠りの罪で地獄に落ちたとしても、そこでもやはり何一つ学ばないだろう。
 魂のありようは、誰にも矯正(強制)できない。

 

 

荒俣宏著の読書記録

 

<了>